「わたしはわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となり、略奪の的となる。」 列王記下21章14節


 ヒゼキヤの子マナセが、12歳で王になりました(1節)。彼は、父が廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシェラ像を造りました。(3節)。神殿の庭に天の万象のための祭壇を築き(5節)、アシェラの彫像を造って神殿に安置しました(7節)。自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いました(6節)。

 ヒゼキヤは、主に信頼すること、ユダの中で最高であったと言われます(18章5~6節)。しかし、マナセは父に倣わず、誰よりも主の目に悪とされることを行ったと言われるイスラエルの王アハブ(列王記上16章30節)に倣います。マナセがそのように、父親とは正反対の、最悪の道を選んだのはなぜでしょうか。

 ヒゼキヤは、死の病が癒され、寿命を15年延長してもらいました(20章6節)。ヒゼキヤが死んで、マナセが王位についたのが12歳だったのですから、ヒゼキヤの死の病が癒されて、その3年後にマナセが生まれたことになります。ヒゼキヤが癒されないまま天に召されていれば、マナセが生まれて来ることはなかったわけです。

 ですから、ヒゼキヤが神の恵みに感謝する生活をし、そして、神がいかに恵み深いお方であるかを、繰り返し語り聞かせていれば、マナセが神に背く道を歩むようにはならなかったのではないでしょうか。

 しかしながら、残念なことに父ヒゼキヤは、神の恵みを自分の働きに対する報酬であるかのように思い違いをしているような者であり、それを指摘、断罪されても、自分の身に起こるのでなければ結構だと、子孫のことなど何とも思っていないかのような独善的な言葉を語っています(19節)。

 子どものことを何とも思わない父親がいるとは思いませんが、もし、そうであるならば、マナセが最善と言われたヒゼキヤに倣わず、最悪とされるアハブに倣う気持ちが分かるような気がします。子孫が酷い目にあっても何とも思わない、自分さえよければ結構というヒゼキヤを、父として尊敬することが出来るでしょうか。その生き方に倣いたいと思うでしょうか。むしろ、徹底的に反発し、反逆するでしょう。

 また、12歳のマナセには摂政がいたと思われますが、彼がマナセにブレーキをかけたような様子は見当りません。想像をたくましくすれば、ユダ王国に、父王ヒゼキヤに倣い、バビロンとの協調路線で行こうというグループと、当時の最強国アッシリアに従うべきだと考えるグループとがあって、後者に軍配が上がり、アッシリアの政策によって、異邦の偶像が持ち込まれたのではないでしょうか。

 また、ユダの民も主に従わず、「マナセに惑わされて、主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりもさらに悪い事を行った」(9節)というのですから、王国全体が滅びに向かって動き出してしまったようです。

 勿論、それでは幸福になれません。親に反発し、主に背く道を進みながら、神の恵みを味わうことは不可能です。歴代誌下33章11節によれば、アッシリアがエルサレムを攻め、マナセを捕らえてバビロンに連れて行きました。イザヤが、冒頭の言葉(14節)で告げた預言のとおりです。

 マナセは、そのような苦悩を経験して、彼は主に悔い改めの祈りをささげました(同12,13節)。神はその祈りを聞かれ、マナセをエルサレムに戻されました。その恵みを味わって、マナセ自身も、主が神であることを知ったのです。

 「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩編34編9節)。

 主なる神は、御前に謙り、悔い改める人の傍らにいて、その苦しみから救って下さいます(同34編19節、51編19節)。こうしてマナセはその罪を離れて神に立ち帰り、異国の神々と偶像を取り除き、主の祭壇を築いて和解と感謝の献げ物をささげ、ユダの民に主に仕えるように命じたので、結局、誰よりも長く55年(1節)という治世を全うすることが出来たのです。

 私たちも、絶えず主の前に謙り、御言葉に聴き従いましょう。神は私たちの歩みを守り、支えて下さいます。

 主よ、あなたの慈しみに感謝し、御名をほめ讃えます。マナセをさえ憐れみ、悔い改めたマナセに祝福を返されました。慈しみの御手の下に身を寄せ、御言葉に耳を傾けます。祝福が常に豊かにありますように。 アーメン