「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中に一つもなかった。」 列王記下20章13節


 死の病にかかったヒゼキヤは(1節)、憐れみを求めて神に祈りました(3節以下)。その結果、病が癒され(4節)、15年間寿命が延ばされ、また、アッシリア王の手からヒゼキヤもエルサレムの町も守られるという約束を頂きました(5節)。

 ヒゼキヤが主の約束の確証を求めると(8節)、主はヒゼキヤの求めに従って、日時計の影を10度、後戻りさせられました(11節)。つまり、地球が逆回転し、時間が40分逆戻りしたことになります。現代科学では到底考えられないような、通常あり得ない奇跡を見せられました。

 人の命は地球よりも重いという言葉がありますが、これはまさに、主がヒゼキヤの命をいかに憐れまれたかということであり、神が一人の人物の祈りをいかに重く受け止められ、お応え下さるかという、明確なしるしです。

 病が癒され、元気になったヒゼキヤの見舞いのために、バビロンの王メロダク・バルアダンの親書と贈り物を携えた使者たちがやって来ました(12節以下)。それに気をよくしたヒゼキヤは、冒頭の言葉(13節)のとおり、宝物庫、武器庫、倉庫にある一切のものを見せました。それは、宮中だけでなく、国中で見せなかったものが何一つないというほどの徹底ぶりでした。

 バルアダンがヒゼキヤの見舞いに使者を遣わしたのは、強国アッシリアに立ち向かうために、アッシリアを撃退した南ユダとの間に(19章35節以下)、しっかりと協力関係を築いておきたいという意図があったものと思われます。

 そのようなヒゼキヤの振る舞いに対して、預言者イザヤが、「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。あなたから生まれる息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある」と告げました(17,18節)。何がそのように主を怒らせ、そのような裁きを招くことになるのでしょうか。

 ヒゼキヤが宝物庫などにあるすべてのものを見せたのは、バルアダンの親書と贈り物に対する感謝、返礼の思い、バルアダンを信頼し、一緒にアッシリアと戦おうという意思を表明しているものと考えられますが、反面、病が癒され、15年も寿命を延ばしてもらったことで、すこし有頂天になっているのではないでしょうか。

 そして、幼児が自分のおもちゃを見せびらかすように、自分の持ち物を使者に対して自慢している様子が伺えます。ここには、神の恵み、神の賜物を自分で獲得したものであるかのような思い違い、あるいは神の栄光を盗む思い上がりがあります。

 その上、イザヤの断罪の言葉を聞いたヒゼキヤは、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えるだけで(19節)、そこには反省のかけらも見られません。息子たちがバビロンの奴隷となり、宦官となる者もあるということは、去勢されて子孫が絶えるようにされるということでしょう。すべて奪われ、子孫が絶えるという危機に、何がありがたいのでしょうか。

 「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」と言われますが(19節)、自分さえ安泰であれば、次の世代のことなどはどうでもよいというのでしょうか。ここにも、ヒゼキヤの独りよがりが見えます。

 こうなると、18章5節では、「彼はイスラエルの神、主により頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」と、最大の賛辞が与えられているヒゼキヤですが、寿命を延ばしてもらわずに、そのまま天に召されていた方がよかったというようなものではないでしょうか。

 彼は、死の病が癒されたことをまず神に感謝すべきでした。すべての栄光を神に帰し、誇るべきは主の恵みです。ヒゼキヤがバビロンの使者たちに見せなければならなかったのは、宝物や武器などではなく、主への信仰、主により頼むことの確かさでしょう。主にある希望や平安な様子を見せ、病を癒して下さった主の力、恵み深さを証して、その栄光を表わさなければならなかったのです。

 しかしこれは、私たちも同様です。私たちも、主の救いと恵みを味わいました。キリスト・イエスに結ばれて、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝することが、求められています。恵みに慣れ、感謝を忘れることがないように、主の御言葉に耳を傾け、御旨を行うために、聖霊の満たしと導きを祈り求めましょう。祈りを聞いて下さる主を信じ、共に神の恵みを証ししていきたいと思います。

 主よ、いつも感謝をもって御前に祈りと願いをささげ、求めるところを申し上げます。人知をはるかに超えた神の平安で心と考えを守って下さるからです。常に、私たちを聖霊に満たして下さい。主の証し人として用いて下さい。主の恵みと導きがいつも豊かにありますように。 アーメン