「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。」 列王記上21章29節


 イスラエルの王アハブは、宮殿の側にあるブドウ畑を譲ってくれと、イズレエル人ナボトに、持ちかけました(1,2節)。しかし、先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることは出来ないと、ナボトはそれを断ります(3節)。それで、アハブはすっかり機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰りました(4節)。

 機嫌を損ね、食事も摂らないでいるので、妻イゼベルがそのわけを尋ね(5節)、いきさつが分かると、「わたしがイズレエルの人ナボトのブドウ畑を手に入れてあげましょう」と言い(7節)、アハブの名でその町の長老と貴族に手紙を書きます(8節)。

 そこには、「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で撃ち殺せ」と記されていました(9,10節)。町の人々は、イゼベルが命じたとおりにしました(11節以下)。

 ナボトが打ち殺されたという知らせを聞いて、イゼベルはアハブに、「イズレエルの人ナボトが、銀と引き替えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きてはいません。死んだのです」と告げました(15節)。アハブはただちにナボトのブドウ畑を自分のものにするため、行動しました(16節)。

 この蛮行を見られた主は、預言者エリヤをアハブのもとに遣わします(17節以下)。それは、主の目に悪とされることに身を委ねたアハブに、「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」(19節)と告げさせるためです。

 アハブの前に進んだエリヤは、「見よ、わたしはあなたに災いをくだし、あなたの子孫を除き去る」(21節)と語り、またイゼベルにも、「イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。アハブに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる」と告げました(23,24節)。

 これらのエリヤの言葉を聞いて、アハブは衣を裂き、粗布を身にまとって断食し、粗布の上に横たわり、うちひしがれて歩きました(27節)。聖書は、アハブのように悪とされることに身を委ねた者はいなかったと言い、それは、妻イゼベルに唆されたのであると語ります(25節)。一方、エリヤの言葉で、あっけないほど素直に悔い改めます。

 これを見ると、アハブは小心者の善人で、妻のイゼベルがとんでもない悪者ということになりそうです。その要素が全くないとは言いませんが、しかし、神の前に義人なし、一人だになしです(詩編14編1~3節、ローマ3章10~12節)。神の赦しなしに、神の前に立てる者はいません。神の憐れみがあるからこそ、救いの道が開かれるのです。

 神の断罪の言葉を聞いて謙ったアハブは、しかし、それで義人になったわけではありません。主を信じて従順に聴き従う者になったわけでもありません。この後、主の預言者ミカヤの語る御言葉に耳を傾けることが出来ず(22章8,16,18節)、結局、ラモト・ギレアドにおけるアラム軍との戦いにおいて、命を落とすことになります(同29節以下、34,35節)。

 けれども、神は罪人を断罪して、罰を与えたいと考えておられるわけではありません。神の御前に悔い改め、謙って真理の道、命の道を歩んで欲しいと願っておられるのです。だから、裁きの言葉を聞いてアハブが謙り、悔い改める姿勢を示したのを見られた主は、冒頭の言葉(29節)の通り、アハブに下すと言われた罰の実行を思い留められました。

 「わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす」と、その執行を先延ばしにされたのです。そして、確かにアハブには主が語られた罰は下されず、戦死した彼は、サマリアに葬られました(22章37節)。

 しかしながら、それで罪を不問にされるわけでもありません。血が流されることなしに、赦しが実行されることはないのです(ヘブライ書9章22節)。神の御子イエス・キリストが、神の御前に私たち罪人に替わってその律法の呪いを受け、十字架で血を流し、死なれました。この神の慈愛に絶えず留まりましょう(ローマ11章22節)。

 今日も十字架の主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けつつ、歩みましょう。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)と詠われているとおりです。

 主よ、あなたの深い愛と憐れみに心から感謝致します。その御手の下に身を寄せ、慈しみの内を歩みます。私たちの上に、主の恵みと慈しみが限りなく豊かにありますように。 アーメン