「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」 列王記上19章18節


 アハブ王からことの顛末を聞いた后イゼベルは、エリヤを24時間以内に、殺された預言者たちのようにすると、呪いをかけてエリヤに告げさせました(1,2節)。それを聞いたエリヤは、何故か恐れに包まれ、直ちに逃げ出します(3節)。

 すっかり希望を失ってしまったエリヤは、「主よ、もう十分です。わたしの命を取って下さい。わたしは先祖にまさる者ではありません」と、神に死を願います(4節)。ここに、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦って勝利した預言者の姿はありません。そして、エリヤの勝利を見て、「主こそ神です」と言ったイスラエルの民はどこへ行ったのでしょう。

 ベエル・シェバのえにしだの木の下で眠っていたとき、天使に起こされ、パンと水が与えられます(5節以下)。その食事に力を得て40日40夜歩き続け、神の山ホレブに着きました(8節)。

 洞穴で夜を過ごしたエリヤは、「エリヤよ、ここで何をしているのか」という主の御声を聞きます。(9節)。エリヤは、自分は情熱を傾けて主に仕えて来たが、イスラエルは神に背いて祭壇を壊し、預言者たちを殺し、今やただ一人残った自分の命も狙っている、と答えました(10節)。

 18章の出来事と、このエリヤの発言までの間に、イスラエルの民が再び主を離れ、バアル礼拝に逆戻りしたのでしょうか。だから、主の祭壇が再び破壊され、バアルの預言者を殺したエリヤの命を狙うようになったのでしょうか。エリヤの言葉を素直に聞けば、そういう出来事が起こったとしか考えられません。

 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われて、エリヤの前を通り過ぎ、激しい風、地震、火を起こされました(11,12節)。聖書において、激しい風や地震、火は、主の臨在を表すものですが(出エジプト3章2節以下、19章16,18節、ヨブ40章6節、イザヤ21章1節など)、しかし、その中に主はおられなかったと言われます。

 最後にささやく声がして、その声を聴いたエリヤは立ち上がります。そして、もう一度、ここで何をしているのかと問いかけられ(13節)、エリヤは10節と同じ言葉で答えるのです(14節)。

 エリヤは、もう疲れてしまって、預言者をやめたいと考えています。死んでしまいたいとすら、思っていました。だから、神がエリヤの前を通り過ぎても、神の現臨のしるしを見ても、そこに神を見出しません。だから、心が動きませんでした。けれども、かすかな声を聞いたとき、今までとは違う呼びかけが、彼の心に届きました。彼の心はまだ変わっていませんが、もう一度神の前に立ったのです。

 エリヤに対する呼びかけは、神に背いて隠れたアダムを、「どこにいるのか」と呼び出されたのと同様です。イゼベルに脅かされ、またイスラエルの民の背信に心挫かれたエリヤは、預言者でありながら、神に聞き、神に従う心を失っていました。喜んで神を礼拝することが、出来なくなっていたのです。

 神はエリヤに、ダマスコの荒れ野に向かい、ハザエルに油を注いでアラムの王とし(15節)、ニムシの子イエフに油を注いでイスラエルの王とし、そして、アベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注いで、エリヤに代わる預言者とせよ、と命じました(16節)。そして、エリヤの働きは決して無駄ではないこと、孤軍奮闘ではないことを知らせます。それが、冒頭の言葉(18節)です。

 エリヤは、全イスラエルが再びバアルになびいたと思っていましたが、なんとバアルにひざまずかず、口づけしない7000もの人々を残す、と神が言われるのです。「七千」は、完全数「7」×完全数「10」の3乗です。つまり、バアルになびかない人がとてもたくさんいるということです。

 そして、「七千人を残す」ということは、バアルに膝をかがめなかった7000人以外の者は、17節に記されているように、ハザエルの剣かイエフの剣、あるいは預言者エリシャによって打たれるということです。

 神の前にすっかり閉ざされていた心にかすかな神の御声が届いて、御言葉に耳を開いたとき、祝福の言葉が心に響いて目が開かれ、エリヤは元気づけられました。立ち上がることが出来たのです。確かに主は、私たちを孤児とはなさいません。主を礼拝する7000人にまさる神の御子、主イエスが私たちと共におられるのです(ヨハネ14章18節、ヘブライ13章5節)。

 主を仰ぎ、今日も御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、インマヌエル(「神が共にいます」という意味)なる主イエスの恵みと平安が、私たちの上に常に豊かにありますように。主の御言葉に絶えず耳を傾け、その導きに喜びと感謝を持って、素直に従うことが出来ますように。 アーメン