「主がわたしの苦しみをごらんになり、今日の彼の呪いに変えて幸いを返してくださるかもしれない。」 サムエル記下16章12節


 ダビデは、息子アブサロムの謀反が明らかになってから、誰とも戦おうとしません。エルサレム城内に留まってアブサロム率いる反乱軍と戦えば、必ずダビデの方が負けるということでもなかったのではないかと思います。

 しかし、ダビデはエルサレムの町が戦乱で荒らされ、町の人々に危害が及ぶことを避けました(15章14節参照)。勿論、息子と血で血を洗う戦いをすることは、絶対にしたくなかったのでしょう。そして、自分の運命を主に委ねています(15章25~26節)。

 本章では、ダビデが先ず、ヨナタンの息子メフィボシェトの従者ツィバの出迎えを受け(1節)、その折、ツィバはメフィボシェトのことを、「『イスラエルの家は今日、父の王座をわたしに返す』と申していました」と、ダビデに告げます(3節)。ダビデが王宮を明け渡した今、王座がメフィボシェトに返されると考えているというわけです。

 ただ、19章25節以下の記事と合わせて考えると、ツィバの言葉をそのまま鵜呑みには出来ません。そもそも、アブサロムのクーデターが見事成功したとして、彼はダビデの子ですから、王座をメフィボシェトに譲るはずがありません。その程度のことも分からないメフィボシェトではないでしょう。ということで、この話は、ツィバがダビデに取り入るための作り話ではないかと思われます。

 次に、サウル一族の生き残りシムイがダビデを呪います(5節以下)。シムイの言葉には誤解、曲解が多々あります。ダビデがサウルに手をかけようとしたことはありません。しかし、ダビデはそれらの言葉を甘受します。

 ダビデの司令官ヨアブの弟アビシャイが、「シムイを討たせて下さい」と進言しますが(9節)、「主がダビデを呪えとお命じになったのだ」と答えます(10,11節)。ダビデは、シムイの呪いの言葉を、神の裁きと受け止めました。サウルの家が退けられたのはまさに主の裁きでしたが、ダビデも確かに、「流血の罪を犯した男」(8節)だったのです。

 ダビデが逃げ出したあと、入城したアブサロムは(15節)、アヒトフェルの言葉に従って、王宮に残っていたダビデの側女のところに入りました(21,22節)。それは、王位を自分のものにしたというデモンストレーションです(3章6節以下参照)。アヒトフェルの提案は神託のようだと、アブサロムのみならず、ダビデも受け止めていたようです(23節)。

 ダビデは、誘惑の前に弱い人間の代表です。決して強い者ではありません。しかし、罪が示されるとそれを素直に認め、悔い改めることの出来る人物です。今ここに自分の罪に対する裁きが語られ、王位がアブサロムに渡されるというのなら、それをそのままに受け入れます。そのようにして徹底的に悔い改めの道を歩もうとする人物なのです。

 悔い改めとは、自分のしたことを後悔すること、懺悔することというよりも、はっきり向きを変えて神に従うこと、神の言われるとおりにするということです。詩編23編は、アブサロムに追われて放浪しているときに詠ったものだと聞いたことがあります。そこに見られるように、ダビデは、死を覚悟しなければならない状況の中で、主の御顔を仰ぎ、主の導きによって平安と希望を見出す経験をしたのです。

 ダビデは、シメイの呪いの言葉を主の裁きと聞いて、謙りました。そのように、主に従って歩む中で、冒頭の言葉(12節)の通り、「主がわたしの苦しみをご覧になり、今日の彼の呪いに変えて幸いを返してくださるかもしれない」、いや、憐れみの神はきっとそうして下さる、と信じることが出来たのです。

 主は、「打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」お方です(詩編34編19節)。どう祈ってよいのか分からずにただ呻いている弱い私たちを顧み、聖霊の執り成しの呻きを聞き届けて(ローマ書8章26節)、万事を益に変えて下さるお方、どんなマイナスもプラスにされるお方です(同28節)。そのように信じることの出来る者は幸いです。

 日々、愛と憐れみを限りなく注いで下さる主を信じる、幸せ者の道を歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちの心を真理の光で照らして下さい。わたしの内に迷いの道があるかどうかをご覧下さい。どうか私たちを、永久の道に導いて下さい。私たちを憐れみ、万事を益となるように働いて下さることを感謝します。全世界に主の慈しみがとこしえに豊かにありますように。 アーメン