「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。』」 サムエル記下12章5節


 貪りと姦淫、さらに殺人の罪まで犯したダビデ王に対して(11章参照)、主は預言者ナタンを遣わしました(1節)。ナタンはダビデに一つの話をします。それは、多くの羊や牛を持つ豊かな男が、来客をもてなすのに自分の家畜を惜しみ、近くに住む貧しい男から、娘のように可愛がっている一匹しかいない雌の小羊を取り上げて、それで客に振る舞った、という話です(1節以下、4節)。

 その話を聞いて激怒したダビデ王は、冒頭の言葉(5節)のとおり、「その男を死罪にせよ」と言い、さらに、「奪ったものを4倍にして償え」と言います(6節)。それは、正しい判断です。他人の罪は、正しく裁くことが出来ました。

 しかしながら、ダビデにはそのように裁きを行う資格はありません。ナタンはダビデに、「その男はあなただ」と告げました(7節)。ダビデこそ、すでに8人以上の妻、側女を持ちながら(3章2節以下、5章13節以下など参照)、隣人ウリヤから小羊バト・シェバを取り上げた男なのです(9節)。

 その上ダビデは、ナタンから指摘されるまで、自分の罪をそれほど自覚してはいなかったようです。神の前に、自分が何をしているのか、分かっていなかったのです。そして、これが私たちの現実です。他人の過ちは、どんなに小さくても断じて許せないと思うのに、自分の過ちには極めて寛大です。主なる神が私たちの罪を裁かれるならば、言うまでもなく、「そんなことをした男は死罪」なのです。

 ダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と直ちにそれを認め、悔い改めました(13節)。詩編51編9,12,13節の、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。・・・神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください」という言葉は、そのときのダビデの悔い改めの祈りです(同1節)。

 ダビデは、自分が犯した罪は、もはや自分がその命をもって償うほかはないことを、はっきり自覚しました。もしも 罪人の自分が生きるのを許されるのであれば、それには魂の清めが不可欠だ。それも、生半可のことではない、修理や改善などでは間に合わない、清い心を創造し、確かな霊を授けて頂くほかはないというのです。

 これは、ずいぶん手前勝手な願いのように聞こえます。自分が罪で汚した魂を、清いものと取り替えてもらいたい、そこに、神の確かな霊を満たして欲しいというのですから。けれども、ダビデが詠うとおり、罪人が神の御前にあって生きるには、そのように神の憐れみに寄り縋るほかはないのです。

 4人の男に連れられてきた中風の男が、家の屋根を破って主イエスの前につりおろされたことがあります(マタイ9章)。そのとき、癒しに先立って、「あなたの罪は赦される」と、宣言されました。主イエスに会うということは、この罪の赦しの宣言を聞くことだ、と学んだことがあります。

 中風の男だけでなく、連れて来た4人の男たちも、そして私たちも、先ず、主イエスに赦しの宣言を聞かなければならない罪人なのです。その宣言を聞いて初めて、自分が罪人であるということを正しく悟ることが出来るのです。そして、その罪の贖いのために、罪なき神の御子の命が支払われたのです。

 預言者ナタンは、「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と言い(13節)、続けて、「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(14節)と告げました。

 それを聞いたダビデはその子のために神に願い、断食します(16節)。子に罪はない、罪の呪いは自分にと願っての断食ですが、七日目に子は息を引き取りました(18節)。自分の罪のために死んだその子を思うダビデの痛みはどれほどのものだったでしょう。

 それは、誰よりも神ご自身が深く知っておられます。神は、御自分の独り子なるキリスト・イエスを、私たちの罪のために、贖いの供え物としてささげられたからです。それは、罪のない御子が十字架で血を流すこと以外に、罪人の私たちを清め、生かす術がなかったからです。

 人知を遙かに超えた主の恵みに日々感謝し、今日も主の御旨に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたは御子イエスを私たちの身代わりに十字架に磔になさるために地上にお遣わしになりました。私たちはキリストによって贖われ、自由にされました。そのことを心から感謝し、主を証しします。私たちを聖霊に満たし、主の証人として用いて下さい。救いの喜びが全世界に広げられますように。 アーメン