「主が油を注がれた方を、恐れもせずに手にかけ、殺害するとは何事か。」 サムエル記下1章14節


 アマレクをうち破って略奪されていたものをすべて取り返し(サムエル上30章参照)、ツィクラグに戻っていたダビデのもとに(1節)、サウルとヨナタンの戦死の報がもたらされました(4節)。メッセンジャーは、アマレクの若者でした(8節)。

 彼は何の偶然か、イスラエル軍がペリシテ軍に対峙して陣取ったギルボア山にいて、戦いを見物することになったのです(6節)。そこで、傷ついたサウル王に乞われて最後のとどめを刺す役割を果たし、サウルがつけていた王冠と腕輪をダビデに届けに来た、というのです(9,10節)。

 この若者は、サウルがダビデを敵視していたことを知っていたのでしょう。そして、サウル亡き後、ダビデが新しい王となるものと考えていたのでしょう。ですから、サウルの戦死を報告し、その証拠にサウルの王冠と腕輪を届けることで、ダビデはきっと喜び、褒美を貰うことが出来ると考えたのだと思います。

 しかしながら、アマレクの若者がサウルのとどめを刺したという部分は、31章3~5節の記事と食い違っています。これは恐らく、ダビデから報償をせしめるために、そのような話を自分で作り上げたのではないか、と思われます。

 もしもダビデが、その王位を奪うためにサウルの死を願うような人物であれば、この知らせに歓喜の涙を流し、アマレク人に褒美を取らせたかも知れません。しかしながら、かつて2度までも神によってサウルの命を手の中に渡されながら、主が油注がれた者に手を下すことをよしとせず、かえって、すべてを主の手に委ねてきたダビデです(サム上24,26章)。

 勿論、ダビデに王となる意志がなかったとは思いません。また、サウルから逃れ、国を離れてペリシテの地に降り、ツィクラグで寄留生活をしなければならなかったのは、辛いことだったろうとは思います。けれどもダビデは、サウルを退けるのは、彼に油を注いだ神のなされることであって、人が神に代わることは出来ないと、堅く考えていたのです。

 それは、「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」、「主は生きておられる。主がサウル(「彼」)を打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ」と語っていたダビデの言葉に明示されています(サム上26章9,10節)。ですから、サウルに手をかけた者は誰であろうと、それがどのような状況であろうと許されることではなく、必ず討たれなければならなかったわけです。

 ダビデは、サウルとヨナタン、そして戦死した多くの兵士とイスラエルの民のことを思って、夕暮れまで断食した後(12節)、つまり、日付が変わってから若者を呼び出し、冒頭の言葉(14節)の通り、「主が油を注がれた方を、恐れもせずに手をかけ、殺害するとは何事か」と言い、従者に彼を討たせました(15節)。

 ここに、ダビデが王位について、神の油注ぎについて、どれほど重く考えているかということが伺えます。それは、ダビデ自身、油注がれた者だからであり、そして、誰よりも主を畏れる者だからです。

 油注がれた者とは、メシア=キリストということですが、キリストを十字架に追い遣り、命を奪おうとしている者のために、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください」と祈られ(ルカ23章34節)、そして、罪の呪いをご自身が引き受けて下さいました。私たちは、主イエスの命によって贖われ、罪赦され、御霊の導きによって信仰を言い表し、神の子とされ永遠の命に与りました。それは、考えることも出来ないほどの驚くべき恵み(Amazing Grace)です。

 神の子に与えられている特権、力、資格というものがどれほどのものであるのか、悟らせていただきましょう。それをもって私たちに委ねられている使命を全うするため、絶えず主の御声に耳を傾けましょう。主の御顔を仰ぎましょう(ヨハネ1章12節、エフェソ1章17節以下)。

 主よ、私たちは、恵みによって主イエスを信じる信仰に導かれ、神の子とされました。どれほどの愛を頂いていることでしょう。それは、独り子を犠牲にするほどの愛です。どうしてそれを徒に受けることが出来るでしょうか。あなたを畏れます。どうか光の子として歩むことが出来るように、整えて下さい。聖霊に満たされ、主の使命を果たすことが出来ますように。 アーメン