「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。」 サムエル記上16章14節


 主はサムエルに、サウルを退け、エッサイの息子たちの中に王となる者を見出したので、角に油を満たして出かけなさいと命じられます(1節)。サムエルは、サウルのことで嘆き続けていました(15章35節参照)。主もまた、サウルを王としてたてたことを悔いられたと記されています(同上)。

 サムエルは、もともと王を立てることに反対していました(8章6節)。そして、立てられた王が神に従わないことから、イスラエルの行く末を思って嘆いていたのでしょう。けれども主なる神は、サムエルとは別の将来を見ておられたのです。

 ベツレヘムに赴いたサムエルは(4節)、町の長老たちの不安を余所に、早速エッサイとその息子たちを会食に招きます(5節)。やって来たエッサイとその息子たちを見て、サムエルは、長男エリアブに目を留め、彼こそ、王に相応しいものだと思いました(6節)。

 けれども、主は「わたしは彼を退ける」と言われました。主は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われます(7節)。同席した7人の息子らはいずれも、主によって選ばれる者ではありませんでした(10節)。

 ところが、食事の席に来ていないもう一人の息子がいました。それは、彼がまだ成人していなかったということでしょう。神は、最も小さいその息子を選ばれました(12節)。その子の名は「ダビデ」といいます(13節)。

 ここでダビデが選ばれたのは、容姿ではエリアブだけれども、心を見るとダビデが相応しいということでもありません。後にダビデは、他人の妻を姦淫を行い、懐妊したと知るや、その事実をごまかすために夫を戦死と見せかけて殺し、未亡人となった女性を妻とするという大罪を犯します。

 「主は心によって見る」というのは、そのような大罪を犯すダビデを選ぶのが神の御心である、という表現ではないでしょうか。そして、ダビデの家系を始め、すべての人類の罪を見に追って贖いの業を成し遂げるため、神は御心に適う者をダビデの末裔から生まれさせます。それが主イエスなのです(マタイ1章1節、3章17節)。

 サムエルがダビデに油を注ぐと、彼の上に主の霊が激しく降るようになりました(13節)。これは、かつてサウルに与えられた恵みでした(10章6,10節)。しかし、サウルはその恵みを失ってしまいました。それは、彼が神の恵みを自分のために利用し、満足を得ようとしたためです。

 神の栄光を盗むことは出来ません。欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます(ヤコブ書1章15節)。聖書が語る死とは、肉体の死というより、関係が絶たれることを意味します。罪によって人との関係が壊れ、神との関係が途絶するのです。サウルは神の命に従わず、自分の欲望に流されたために神に退けられ、主の霊が彼から離れ去ってしまったのです。

 それどころか、冒頭の言葉(14節)のとおり、「主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」と言われます。「主から来る悪霊」というのは、主なる神が自ら悪霊を送り出すということではなく、悪霊といえども主なる神の許しなしに人を苛むことは出来ないということでしょう(ヨブ記1章6節以下、12節、2章1節以下、6節参照)。

 かつて悪魔は、蛇を通してアダムに、「お前は神のようになれる」と誘惑しました。誘惑に負けて悪魔に従った結果、神のようになれたのではなく、神にエデンの園から追放され、苦しみながら生きる者とされてしまいます(創世記3章)。高慢と反逆によって退けられたサウルは、ますますその罪を拡大させ、彼に代って油注がれたダビデを妬んで殺そうとするようになります。

 ある人から出て行った悪霊が戻って来てみると、空き家できちんと整理整頓されているのを見て、他の七つの霊を連れて来て入り込み、住み着くと、その人の状態は前よりも悪くなると、主イエスが例え話をされたことがありますが(ルカ11章24~26節)、このときのサウルは、まさにそのような状態でした。

 神様から与えられた恵みを疎かにせず、神のため、人のために用いて神に栄光をお返しするため、御言葉に従って歩み、絶えずその油注ぎを保ち続け、後の状態は前よりもはるかによくなったと言われるようにして頂きたいものです。

 主よ、あなたはダビデを選ばれました。それは、ダビデが清かったからではありません。ダビデの子孫として、御子キリストを誕生させ、全人類の罪の贖いを成し遂げさせるためでした。ダビデが選ばれたのは、主の恵み以外の何ものでもありません。主は私たちもお選び下さいました。その召しに答え、御言葉に従い、主の御心を行う者となることが出来ますように。 アーメン