「反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」 サムエル記上15章23節 

 サムエルが主の言葉として、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」(3節)とサウルに命じました。アマレクは、創世記36章12節によれば、エサウの孫で、イスラエルにとっては親族という間柄です。

 しかし、エジプトを脱出したイスラエルの民にレフィディムで攻撃を仕掛けたり(出エジプト記17章8節以下)、士師時代、近隣諸国の民と共にイスラエルに攻め上って来たりして(士師記3章13節、6章3節)、絶えず敵対しています。アマレクを滅ぼし尽くせという命令は、レフィディムの攻撃に報復するため、既に申命記25章17節以下に、その命令がモーセを通じてイスラエルの民に語られていました。

 サウルは21万の兵を集め、イスラエル南方のアマレクの町に攻め込み(4節以下)、アマレク人を討ちました(7節)。ところが、滅ぼし尽くせという命令にも拘わらず、アガグ王は生け捕りにし(8節)、羊と牛の最上のもの、肥えた動物、小羊など、上等なものは、惜しんで滅ぼし尽くしませんでした(9節)。

 それを見た主はサムエルに、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」と告げます(11節)。サムエルは翌朝サウルのもとに赴き、主の命令に従っていないことを指摘すると(14節,17節以下)、それは神への供え物にしようと、最上のものをとっておいたのだと言い訳けをします(15節,20,21節)。

 サムエルはサウルに、主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえではなく、主の御声に聞き従うことではないかと問い、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさると示した後(22節)、冒頭の言葉(23節)のとおり、その反逆行為によって、王位から退けられると告げます。

 偶像を仰ぐことや占いや呪い、霊媒などは、主の目に悪とされ、そのようなことを行う者は神に厭われます(レビ記19章4,26,31節)。「口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ」(同20章6節)という言葉もあります。

 今サムエルは、サウル王に対して、神の命令に従わないこと、御言葉に耳を傾けないことは、神への反逆であり、高慢なことである。そしてそれは、占いや偶像礼拝の罪に等しいと、断罪しているのです。

 さらに、サウルの高慢は、命令に忠実に従おうとしなかっただけでなく、勝利をお与になった主に感謝して賛美をささげることはせず、自分のために戦勝記念碑をカルメルに建てているというところにも表われています(12節)。そのときサウルは、サムエルに報告することさえしていないのです。

 サムエルによる厳しい断罪の言葉を聞いて、サウル王は慌てて罪を認めますが、しかし、「兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました」と、責任を転嫁します(24節)。さらに、「民の長老の手前、イスラエルの手前」、自分を立ててくれるように、そうすれば主を礼拝する、とサウルは答えます(30節)。およそ真の悔い改めとはほど遠い、その地位にしがみつこうとする権力者の哀れな姿をここに見ます。

 サウルは、神に喜ばれることよりも、自分自身を喜ばせることを優先し、神を畏れるよりも人々の前に体面を失うことを恐れています。これは、昨日学んだサウルの息子ヨナタンの信仰とは全く好対照です。サウルのこうした姿勢が、やがて登場してくるダビデに対して、地位を守るためになりふり構わず、その命を狙うという行動に出させるのです(18章6節以下)。それゆえ、主によってその地位から退けられるのです。

 サウル王を反面教師として、サムエルが告げたとおり、主の御声に耳を傾け、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御慈しみをもって私たちを憐れんで下さい。深い御憐れみをもって、私たちの愚かな背きの罪をぬぐって下さい。神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。神よ、私たちの救いの神よ、恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いて下さい。この口はあなたの賛美を歌います。 アーメン