「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」 サムエル記上14章6節

 ヨナタンはある日、自分の武器を持っている従卒に、「向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう」と言い出します(1節)。3万の戦車に6千の騎兵、無数の兵士に攻め込まれて、それを迎え撃つ自軍イスラエルの兵はわずか6百。戦闘の火蓋が切られれば、結果は見えています。そこで、自分たちの方から打って出ようというわけです。

 とは言っても、ヨナタンの手には杖(24節)、従者の手に一本の剣、それが彼らの武器です。たった二人で、鉄の戦車や馬で武装してやってくるペリシテ軍に、どう立ち向かおうというのでしょうか。言うまでもなく、敵の方が圧倒的に大きいのです。数が多いのです。やってみなくても、結果は火を見るより明らかなのではないでしょうか。

 しかし、ヨナタンはそのように考えませんでした。冒頭の言葉(6節)で、彼はペリシテ人を「無割礼の者ども」と呼んでいます。当時、割礼をしているのはイスラエル人だけではありませんでしたが、ここにペリシテ人は割礼をしていないという情報を提供しているのではありません。主なる神を信じていない、異教徒だということです。

 主を信じていない異教徒が、主なる神を信じ、主が味方して下さるイスラエルの軍隊に勝てるはずがない、とヨナタンは確信しているのです。だから、「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」というのです。

 理屈から言えば、人間がどんなに束になってかかっても、神には勝てないでしょう。しかし、目に見えない神に依り頼むというのは、言うほど易しくはありません。ヨナタンの父サウルは、主に信頼して、「七日間」、ギルガルでサムエルを待つということが出来ませんでした。

 目の前にペリシテ軍の大軍が集結しているのを見て、イスラエル軍の中に敵前逃亡する兵が続出したからです。だから、神を味方に付けるため、慌てて自分で献げ物をささげようとしたわけです(10章8節、13章8節以下参照)。神の霊の力を受けてアンモンの王ナハシュの軍を打ち破ったあの勇敢なサウルは(11章6,7,11節)、どこに行ってしまったのでしょう。

 けれども、ヨナタンには、主を信じる信仰がありました。彼の信仰の目には、ペリシテの大軍よりも、自分たちに味方される神の方が大きく見えていたのです。

 後に、アラム軍に町を包囲された折、預言者エリシャが怖じ惑う召使いゲハジに、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者よりも多い」と言いました。そのとき、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちていたのです(列王記下6章15節以下)。神が共におられることを信じる心、主の御業を見ることの出来る信仰の目、主が語られる御言葉を聴く信仰の耳を持つ者は幸いです。

 しかし、それは一朝一夕に獲得されるものではありません。敵を撃ち破るために用いられたヨナタンの手足、その心は、日頃から主の御前に跪き、賛美と祈りをささげるために用いられていたものと思われます。彼が、神の御前で時を過ごす者であったからこそ、どんなときでも神が味方して下さることを信じることが出来たのです。そして、主なる神もまた、彼の信仰にお答え下さったわけです。

 列王記上18章30節の、「壊された主の祭壇を繕った」という言葉から、「壊れやすいのは祈りの祭壇である」と、今は亡き榎本保郎先生が語っておられました。いつの間にか祈りの手が下がり、信仰の心が萎えてしまって、いざというときに力にならなくなってしまうのです。

 パウロが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ書6章12節)と言っていますが、主との交わりのために時間を割いて御言葉に耳を傾け、祈ることこそ、私たちがいつも勝ち取らなければならない信仰の戦いなのです。主を信じて仰ぐならば、勝利は常に私たちのものなのです。

 絶えず主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、聖霊の導きを求めつつ、感謝をこめて賛美と祈りを主に捧げましょう。 

 主よ、あなたはいつも取るに足りない者、数少ない者を用いられます。彼らが勝利を得るのは、主に依り頼んでいるからです。主イエスの弟子は一握りでしたが、主は彼らを用いて全世界に福音の業を広げられました。私たちも主に選ばれた者として、主と主の御言葉に信頼して宣教の働きを進めることが出来ますように。 アーメン