「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。」 サムエル記上12章23節


 12章には、「サムエルの告別の辞」という見出しがつけられています。サムエルは、ギルガルでサウルの即位式を行い(11章14節)、国の指導者としての地位から退きます。そのための退任の辞です。

 裁判を行うことについては、既に息子たちを任命していました(8章2節)。王として、民を治めること、軍隊を指揮することなどが、サウルの仕事になったのです。サムエルは、「わたしは年老いて、髪も白くなった」(2節)と言います。これからサムエルは何をして過ごすのでしょうか。ゲートボールでしょうか。日がな一日日向ぼっこでしょうか。

 そうではありません。サムエルには、大切な使命があります。それは、預言者としての働きです。サムエルはここで、サウルに国の指揮を委ねるにあたり、祝辞を述べているわけではありません。

 12節に、「アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した」と言い、さらに、17節で、「今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨を下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい」と告げます。

 そして、サムエルが主に呼び求めると、主は雷と雨を下されました(18節)。「小麦の刈り入れの時期」(17節)というのは、5~6月のことで、パレスティナは通常、既に乾期に入っており、雨が降ることはありません。季節外れの雷と雨は、まさに民の目を覚まさせるものであり、その罪の大きさを気づかせるものでした。それで、民は主とサムエルを非常に恐れたのです(18節)。

 悔い改めの言葉を語る民に(19節)、先にサムエルは14節で、「主を畏れ、主に仕え、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい」と語っていましたが、あらためて、「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい」と、信仰の道を示します(24節)。

 そして、不従順の道を歩むならば、「主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られる」(25節)ということで、王を失うに留まらず、国を滅ぼすことになると警告しているのです。そしてこれは、紀元前8世紀に北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされたこと、紀元前6世紀に南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、王を初め民が捕囚とされたという悲劇を暗示しています。

 サムエルは、イスラエルの民が希望を持って信仰の道を歩むことが出来るように、二つのことを語りました。それは第一に、神はご自分の御旨に従って選ばれた民を、簡単に捨てて、ご自分の名を汚すようなことは決してなさらないということであり(22節)、第二に、冒頭の言葉(23節)で告げているとおり、サムエル自身がイスラエルの民のために執り成し祈ること、神の御旨を正しく教えるということです。

 サムエルは、自分が執り成しの祈りをやめることは、神の御前に罪を犯すことだと考えていました。これは、民のために執り成しの祈りが必要であるということであり、それなしに民は正しく歩むことが出来ないということを示しています。そして、執り成しの祈りは、神がサムエルに与えた使命だったのです。サムエルは神の御前に、民のために執り成し祈り、また、民に神の御旨を教える預言者として、残る生涯を献げるのです。

 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とパウロは言いました(ローマ書11章29節)。勿論、若いときと年老いてからとでは、働き方、働きぶりは異なるでしょう。しかし、主が取り消されない限り、その務めは続くのです。

 主の御名によって立てられた預言者の務めによって、民は生き返らされ、正しい道に導かれ、災いを恐れず、むしろ勇気と希望を持って進むことが出来るのです。私たちも、主に委ねられている能力に応じ、賜物に応じて、主のために精一杯励ませていただきましょう。

 主よ、私たちのためには、御子キリスト・イエスが右の座で執り成していて下さいます。それは何よりも心強く、希望と平安が与えられるものです。主の祈りに支えられながら、私たちに委ねられている宣教の使命に、また執り成し祈る務めに勤しみます。御名が崇められますように。全世界にキリストの降誕を祝う喜びと平安が豊かにありますように。 アーメン