「わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出てくる者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 士師記11章31節


 ギレアドに集結して戦いを仕掛けて来るアンモン軍に対し、イスラエル軍はミツパに陣を敷いて、これを立ち向かいます(10章17節)。ギレアドの長老たちは、勇者(1節)として知られたエフタに対し、軍の指揮官になるよう要請します(6節)。

 エフタは遊女の子で、正妻の産んだ子らと折り合いが悪く、父ギレアドの家を追放されていました(2節)。エフタはトブの地に身を落ち着け、そこにならず者が集まり、行動を共にするようになっていました(3節)。トブの地は、ギレアドから北東に広がるシリヤ(アラム)の肥沃な地です。だから、「トブ」=「よい」地というのでしょう。

 エフタをギレアドの指揮官にするということは、誰もが彼の力を認めているということです。ということは、エフタがギレアドの家を追放されることになったのも、彼の兄弟たちがエフタの力を恐れてのことだったのかも知れません。彼の許にならず者が集まったのも、人を引きつける力があるということです。

 12節以下には、指揮官となったエフタがアンモン王に使者を送って告げさせた言葉が記されています。「奪った土地を返せ」と要求するアンモン王に対し(13節)、「イスラエルはモアブの地もアンモンの地も奪いはしなかった」と答えます(15節)。そもそも、モアブ、アンモンは、イスラエルの父祖アブラハムの甥ロト一族の子孫です(創世記19章37,38節、申命記2章9節以下、18節以下)。

 さらに、アモリ人と戦ってその領土を占領したこと(19節以下、22節)、イスラエルの神がアモリ人を追い払われたように、アンモン人はケモシュの神が与える地をとるべきこと(23節)、モアブの王バラクとは、戦いを構えなかったこと(24節)、ギレアドの地に住み始めて既に300年になるのに、その間一度も取り返すという話はなかったこと(26節)などを挙げて、今、イスラエルがアンモンに攻め込まれる理由はないと結論します(27節)。

 ところが、アンモン王はそれに耳を貸さず(28節)、戦いが始まります。そのとき、主の霊がエフタに臨みました(29節)。神がエフタに味方して、知恵と力を授けられたということでしょう。そこでエフタは、ミツパからアンモンに向かって、大胆に兵を進めます。

 その際、彼は神に誓願をします。それが冒頭の言葉(31節)で、神がアンモンとの戦いに勝利させて下さるなら、凱旋して家に帰ったとき、最初に彼を出迎えた者を主のものとすると誓いを立てたのです。そのように誓願をしなければ、勝利がおぼつかなかったというわけでもないと思いますが、18年に亘ってイスラエルを苦しめているアンモンに勝利するためには、是が非でもという思いがそこに働いていたのでしょう。

 主はアンモンをエフタの手に渡され、縦横にアンモン人を打ち破らせたので、アンモン人はイスラエルに全面降伏しました(33節)。ところが、意気揚々引き上げて来たエフタを出迎えたのは、彼の一人娘でした(34節)。

 独り子イサクを献げるようにと神に求められたアブラハムと同様、自分が言い出したこととはいえ、それはエフタにとって、アンモンとの戦いに敗れるよりも辛いことだったでしょう。彼は衣を引き裂いて、「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者となるとは」と慨嘆します(35節)。

 エフタは、娘が出迎えると考えていなかったわけです。娘の方も、凱旋してきた父を喜ばせようとして、鼓を打ち鳴らし、踊りながら出迎えたわけで、まさかそれが、父を悲しませることになるとは、想像もしていなかったことだったでしょう。娘にその責任があるはずもありませんが、文字通り、エフタはその事実に打ちのめされてしまったのです。

 ただ、名も記されない娘ですが、彼女は父に、主の御前に誓ったとおりにして下さいと言います(36節)。主への誓願であり、それによる戦勝であるということを、しっかり受け止めたのです。エフタはその通りに娘を献げました(39節)。

 人の命が死でおしまいになるなら、まさしく絶望的な話ですが、私たちは、死後の世界があると信じています。その世界を開いて下さったのは、神の独り子イエス・キリストです。神はご自分の独り子を十字架につけて犠牲とし、キリストを信じる者に死んでも死なない永遠の命を授けて下さいます。

 神は、誓ったとおり独り子を犠牲にするエフタの気持ちも、犠牲となった娘の思いも、ご自分の身に引き受け、彼らに永遠の命をお授け下さったと信じます。私たちの主は、憐れみと慈しみに富む神だからです。

 主よ、イスラエルは、エフタの娘の犠牲により、彼らを苦しめていたアンモンに徹底的に勝利することが出来ました。私たちは今、御子イエスの贖いにより、主を信じる信仰に導かれ、罪と死の呪いから解放されました。恵みの主の御足跡に従い、右にも左にも逸れることがありませんように。 アーメン