「イスラエルの人々は主に言った。『わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください』。」 士師記10章15節


 アビメレクの死後、トラ(1節)、そしてヤイルと(3節)、士師が立てられました。主は、士師と共にいて、士師の存命中、敵の手からイスラエルを救って下さいました。イスラエルが敵に苦しめられ、呻いているのを哀れに思われたからです(2章18節参照)。

 ところが、士師が召されると、イスラエルの人々は「主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕え」ました。「彼らは主を捨て、主に仕えなかった」のです(6節)。

 そこで、主はイスラエルに対して怒りを燃やし、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡されました(7節)。ペリシテはイスラエルの南西に、アンモンはイスラエルの東に位置する国です。いわば、東西の国々に挟まれて18年もの間、苦しめられたのです。

 そこで、イスラエルの人々が主に助けを求めて叫びますが(10節)、主は、「あなたたちはわたしを捨て、他の神々に仕えた。それゆえ、わたしはもうあなたたちを救わない。あなたたちの選んだ神々のもとに行って、助けを求めて叫ぶがよい。苦境に立たされたときには、その神々が救ってくれよう」と、突き放されます(13,14節)。

 とりつく島もないといったところですが、確かに、そう言われても仕方のないことでした。しかし、本当に主に見捨てられてしまうならば、イスラエルはどうして立ち行くことが出来るでしょう。苦境に立たされなければ、そのことに気づけないというところが、私たちの弱さ、愚かさです。しかしながら、主なる神は、悔い改めて主を求める者の祈りを無視されることはありません。

 イスラエルの民は、冒頭の言葉(15節)の通り、「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください」と、主に祈り願いました。そして、悔い改めのしるしとして、異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕える姿勢を示したのです(16節)。

 それで主は、イスラエルの苦しみを見て見ぬふりをするのに耐えられなくなり(16節)、再び彼らを助けるために、士師エフタをお立てになるのです(11章1節以下)。

 アンモンの人々がギレアドに陣を敷いたのに対してイスラエルに人々はミツパに集まって陣を敷きました(17節)。「ミツパ」とは、見張り所という意味です。国境付近、また重要な場所にミツパが設けられました。聖書には、5カ所ほどミツパが登場します。ギレアドのミツパといえば、ヤコブが叔父ラバンと契約を結んだ場所です(創世記31章43節以下、49節)。

 そのときラバンが、「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように」と言いました。前述の通り、ミツパは敵を見張るという言葉ですが、ラバンはこれを、神が見張っていて下さるというように考えたわけです。

 冒頭の言葉で、イスラエルの民は主に向かって、「わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください」と言っています。「御目にかなうこと」とは、原文のヘブライ語では、「あなたの目におけるすべてのよいこと」という言葉です。「よい」とは、ヘブライ語で「トブ」と言います。神がその目で「トブ」をくまなくご覧になります。

 そして、まるで語呂合わせであるかのように、というかまさに語呂合わせですが、ミツパに集結しているイスラエルのために、主は御目をもって周囲を見張り、「トブの地」をご覧になって、そこからエフタを士師として呼び出されたのです(11章3節参照)。

 私たちの目が開かれて、周囲が見えること、目先が利くことは重要なことかも知れませんが、しかし、主が見ていて下さること、目を留めて下さるということは、なんと素晴らしいことでしょうか。主が御目にかなうことをなして下さることは、素晴らしいことです。主の御前に謙り、主に相応しくないものを私たちの内から一掃し、主に心からお仕えしましょう。


 主よ、私の内側を探って下さい。主の御名を汚す、御前に相応しくないものを取り除いて下さい。御言葉と主の血潮によって清めて下さい。新しい確かな霊を授けて下さい。主の御業が前進しますように。 アーメン