「主はギデオンに言われた。『手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分のところに帰しなさい。』」 士師記7章7節


 士師として選ばれたギデオンは、イズレエル平野に陣を敷いたミディアン人、アマレク人、東方の諸民族に対して(6章33節)、マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリから兵士を集めて(同34,35節)、イズレエル平野の南、ギルボア山の麓、エン・ハロド(「ハロドの泉」の意)に陣を敷きました(1節)。

 ミディアン人らは、「イナゴのように数多く、平野に横たわって」おり、「らくだも海辺の砂のように数多く」いました(12節)。それを迎え撃つギデオンの兵士の数は、3万2千人です(3節参照)。

 武装はもとより、その数において劣勢を強いられるイスラエルですが、主はギデオンに、「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない」と言われました。その理由は、「渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」ということです(2節)。そこで、敵の大軍の前に恐れ戦いている者2万2千をを帰らせると、残りは、1万人になりました(3節)。

 敵の大軍の前に、決して多いとは言えない数です。けれども主は、「民はまだ多すぎる」」と言われ、水辺に下りて、水の飲み方で民を分けさせます。それは、冒頭の言葉(7節)のとおり、手で水をすくい、すすって飲んだ3百人だけを残して、あとは家に帰らせるということでした(6,7節)。主は、この3百人の手にミディアン人を渡そうと約束されます。

 この3百人は、イスラエルの中で飛び抜けて実力がある、特別に勇敢な兵士というわけではないでしょう。そういう基準を設けるなら、6章で学んだとおり、士師のギデオン自身が失格するかもしれません(6章17節、36節以下参照)。

 戦いに赴く兵士のより分け方について、膝をついて水をなめる者たちは、戦いの心備えが出来ていない、水を手にすくってすすった者たちは、片手に武器を持ち、いつ戦いが始まっても対応出来る心構えが出来ていたという解釈を聞きます。

 それは、その通りだろうと思いますが、しかし、大の大人が、膝をついて水をなめるでしょうか。いないとは言いませんが、97%の男がそうするなどとは、到底思えません。それに、3百人がそれぞれ、一騎当千の勇者というような力の持ち主であれば、これまた、「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言う」という事態になることでしょう。

 その意味で、「神の助けがなければ、到底ミディアンに対抗することなど出来なかった」と言わせるために、主はむしろ力の弱い少数者を選ばれたのではないでしょうか。力が弱ければ、慎重にことを進めるでしょう。知恵を巡らすでしょう。そして何より、神に依り頼むはずです。

 開戦前夜、ギデオンは主に命じられ、敵陣をこっそり偵察します(9節)。一人では恐ろしかったので、従者プラを同行させました(10,11節)。そこで一人の敵兵が仲間に、「大麦のパンがミディアン陣営に転がり込んで、天幕を倒してしまった」という夢の話をしていました(13節)。すると、その仲間が、「それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない」と、その夢解きをしたのです(14節)。

 それに力を得たギデオンは、ひれ伏して感謝を捧げます(15節)。陣営に戻り、3百人を百人ずつ三つに分けました(16節)。そして、敵陣のところまで近づいて角笛を吹き、松明をかざし、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫ぶと(19節以下)、敵陣営の至るところで同士討ちが起こり、自滅の状態でした(22節)。

 何しろ、全員が右手に角笛、左手に松明の入った水瓶を持っているということは(16,20節)、誰も剣や槍を持っていないということです。それなのに、武装でも兵の数でも圧倒的に勝っているはずのミディアン軍が、ギデオンの前から蜘蛛の子を散らすように敗走したのです。

 イスラエルの民はこの戦いで、神が味方して下さり、その御言葉を信じて立つと、人の知恵や力では考えられない神の御業を見ることが出来ることを学んだのです。人には出来ないことも、神には何でも出来るからです。


 主よ、イスラエルの民は、苦難を経る度に主を仰ぎ、その救いの恵みを経験することが出来ました。確かにあなたは、御名を呼び求める者を皆お救い下さいます。私たちも主を信じ、日々その御言葉に耳を傾けます。主の御業を拝し、御名の栄光を褒め称えさせて下さい。 アーメン