「彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」 ヨシュア記6章5節


 主の軍の将軍が、ひれ伏して拝したヨシュアに、エリコの町を攻撃するための作戦を授けました。その作戦とは、兵士たちが町の周りを1周回り、それを六日間続けるというものです(3節)。

 そのとき、7人の祭司が雄羊の角笛を携えて先導します。そして、七日目には7周回ります。それから、角笛を吹き鳴らします(4節)。その音を合図に、冒頭の言葉(5節)の通り、後方に控えているイスラエルの民全員で鬨の声をあげます。そうすると城壁が崩れ落ちるので、そこから町に突入せよというのです。

 町の周りを一日目から六日目まで1周、七日目は7周、合計13周回り、大声を出せば城壁が崩れ落ちるというのは、いつでもどこでも、誰がやっても、必ずそのようになるという作戦ではありません。主の軍の将軍が授けて下さった作戦だからこそ、今回それが起こるというわけですが、俄かには信じ難い内容です。実行することが難しいわけでもありませんが、まともにやってみようと思う人はどれほどいるだろうかと考えてしまいます。

 ここでしかし、ヨシュアは単純に信じました。先ず祭司たちを呼び集めて、主の軍の将軍が授けた作戦を伝えました(6節)。次に、民全体にそれを命じました(7節)。すると、誰もが素直に聴き、従います(8節)。そして、七日目、7周回った後、皆で鬨の声をあげると、主の軍の将軍が告げたとおり、城壁が崩れ落ちました(20節)。そこから城内に入り、町を占領しました。そして、命あるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くしました(21節)。

 あらためて、エリコの城壁が崩れたのは、吹き鳴らされた角笛や鬨の声の大きさの故ではありません。また、何度も町の周りを回ったからということでもありません。城壁を崩したのは、主の御力です。主が御腕を伸ばされたので、城壁が崩れたのです。ということは、町の周りを13周回ることも、角笛を吹くこと、鬨の声をあげることなども、城壁を崩落させるための必要な条件ではないのです。

 つまり、主がなさろうと思われれば、イスラエルの民が何もしなくても、城壁を崩落させ、町を破壊することが出来たはずです。しかし、主なる神はこのようにして、イスラエルの民が御言葉に聴き従うか否かを御覧になったわけです。

 エレミヤ書1章12節に、「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの御言葉を成し遂げようと見張っている」と記されています。主は、ご自分の御言葉を成就することがお出来になるのですが、しかし、それを「見張っている」と言われるのは、御言葉が信仰をもって聞かれるか、御言葉がそれを聞いた人々と信仰によって結びつけられるか否かを見張られるわけです。

 神はこのとき、イスラエルの罪を裁くため、北にあるバビロニア帝国を「燃えたぎる鍋」として、用いようとしておられました(同13節参照)。もしもイスラエルの民が、エレミヤの預言の言葉を聞いて悔い改め、神に従う信仰を示していたならば、その災いが止められることになったでしょう。

 ヘブライ書4章2節に、「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです」と記されています。エジプトを脱出した民が、神の御言葉を信じなかったために荒れ野で神に打たれ、約束の地に入れなかったというのです。

 そして、その不信仰、不従順は荒れ野でのことに留まらず、ソロモン以後エレミヤの時代に至るまで繰り返されたため、結局、国が南北に分裂した後、北はアッシリアに、南はバビロンによって滅ぼされ、捕囚となる憂き目を見るようになったわけです。

 ヘブライ書の記者は、「信じたわたしたちは、この安息に与ることができるのです」(同3節)と言います。即ち、私たちが神の言葉を信じ、それに聴き従うことを求めているわけです。一度信じさえすれば、それでよいわけではありません。信じ続けること、聴き従い続けることが求められています。

 日々、主の御言葉を信仰をもって聴き、その御心を悟ることが出来るように、その導きに従って歩み出すことが出来るように、祈りつつ御言葉を開きましょう。

 主よ、あなたの御言葉ほど確かなものはありません。昨日も今日もとこしえまでも真実です。御言葉を聞く信仰を与えて下さい。謙って御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン