「主の軍の将軍はヨシュアに言った。『あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』。ヨシュアはそのとおりにした。」 ヨシュア記5章15節


 ギルガルに宿営している民に、主は割礼を施すよう命じられました(2節)。それは、荒れ野で生まれた男たちが、無割礼だったからです(7節)。割礼は、神と民との契約のしるしとして施されました(創世記17章9節以下)。荒れ野で生まれた男たちが無割礼だったということは、430年のエジプトにおける奴隷生活の中において、割礼が徹底されていなかったしるしではないでしょうか。

 9節で、主がヨシュアに、「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)」と言われました。それで、その場所がギルガルと呼ばれるという説明になっています。「今日、エジプトでの恥辱を取り除いた」ということは、荒れ野の生活においては、恥辱を雪ぐことが出来なかったということです。

 「エジプトでの恥辱」というのですから、エジプトにおける奴隷生活のことでしょうけれども、モーセに率いられてエジプトを脱出したものの、不信仰、不従順であったために、エジプトを脱出した第一世代は、約束の地に入ることが出来なかったということをも、ここに示しているわけです。

 割礼を受けた後、彼らはエリコの平野で過越祭を祝いました(10節)。それは、永遠に守るべき定めとして、「主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない」と規定されていたからです(出エジプト記12章25節)。割礼を施した後に過越祭を祝ったのは、「無割礼の者は、だれもこれを食べることができない」(同12章48節)という規則になっているからです。

 かくて、ヨシュアたちは、今ここに神との契約を確認し、神の救いの約束が成就したことを、皆で喜び祝ったわけです。

 過越祭が行われた後、どれほどの日時が経過したのか分かりませんが、あるときヨシュアは、抜き身の剣を手にした一人の男が立っているのを見ました(13節)。ヨシュアが歩み寄り、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると(13節)、彼は、「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、ついたところだ」と答えました(14節)。

 「いや」というのは、味方でも敵でもないということです。即ち、主の軍の将軍はこのとき、ヨシュアに味方するために来たというのではありません。ことを決するのは神であり、ヨシュアが主の命に従うかどうかを試しに来たわけです。

 抜き身の剣といえば、モアブの王バラクが雇った預言者バラムの前に立ち塞がった主の御使いのことを思います(民数記22章22節以下)。バラクが与えると約束した報酬に少々目のくらんでいるバラムは、抜き身の剣を持って立っている主の御使いを認めることが出来ませんでした。後で目の開かれたバラムに御使いは、「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(同35節)と言いました。

 一方、ヨシュアはすぐにひれ伏して拝し、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と尋ねます(14節)。つまり、ヨシュアは主の軍の将軍の前にひれ伏すことで、主に従う姿勢を示したのです。神は、どんないけにえよりも、御前に謙り、御言葉に聴き従うことを喜ばれます(サムエル記上15章22節、詩編40編7節、51編18,19節)。

 主の軍の将軍は、冒頭の言葉(15節)の通り、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる所である」と言います。これは、神の山ホレブで燃える柴の間からモーセに語られた神の言葉を思い出させます(出エジプト記3章5節)。つまり、ここで主の将軍はヨシュアに履物を脱がせ、まさしく、主に聴き従う下僕として召しているのです。

 また、「聖なる所」は、6章19節の「聖なるもの」と同じ言葉です。その関連で、モーセの立っている場所が「聖なる所」だというのは、エリコが主のものであるという宣言と考えることが出来ます。だから、主の命に従ってその地を獲り、すべてを神にささげることが求められることになるのです(6章2,17節)。

 「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてしたさるからです」(第一ペトロ5章6,7節)。

 主よ、あなたはヨシュアに履物を脱ぐように命じました。私たちも今、履物を脱ぐ思いで御前にいます。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。どうぞお話下さい。僕は聞いております。御名が崇められますように。御心がこの地にもなされますように。 アーメン