「ヨシュアが祭司たちに、『契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ』と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。」 ヨシュア記3章6節


 イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活430年(出エジプト記12章40節)、荒れ野の放浪生活40年を経て(民数記14章34節、申命記5章6節)、ようやくヨルダン川の岸辺にやって来ました(1節)。夢にまで見たといえば大袈裟かも知れませんが、主が与えると約束されたカナンの地は、もう目の前です。

 冒頭の言葉(6節)で、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じられている通り、民の先頭を契約の箱を担いだ祭司、レビ人たちが進みます。契約の箱を担いだ祭司たちが「民の先に立って」と言われているのは、主なる神が民の先頭を歩まれるということでしょう。民は主に従って歩むのです。

 民は、契約の箱との間に、約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならないと言われます(4節)。二千アンマは、約900メートルです。これは、民が契約の箱に触れて打たれることがないようにという注意でしょう。また、契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川を渡るときに何が起こるのか、その様子をつぶさに観察するという目的があるのかも知れません。

 契約の箱は、縦2.5アンマ(約112.5センチ)、横1.5アンマ(約67.5センチ)、高さ1.5アンマという立方体で、アカシヤ材で作られ、それを金で覆っていました(出エジプト記25章10節以下)。その蓋は「贖いの座」と呼ばれ(同17,21節)、そこには2体のケルビムがつけられていました(同18節以下)。

 ケルビムは、翼を持つ半人半獣の天的な生き物で、エデンの園を守り(創世記3章24節)、神を乗せて運ぶ(サムエル記下22章11節)などの役割を持っています。つまり、ケルビムに乗られた主が、戦闘を進まれて、後に従ってくるイスラエルの民の進む道をもうけられるわけです。。

 彼らは、「川を渡れ」と命じられています。ヨルダン川には、歩いて渡れる浅瀬がありますが、祭司たちがその知識を持っていたとは思えません。「渡れ」と命じられたので、渡れる、と単純に考えていたのではないでしょうか。しかし、祭司たちがヨルダン川のところに来たとき、「春の刈り入れの時期」、つまり、レバノン山系の雪解け水で川の水量が増し、「堤を越えんばかりに満ちて」いて(15節)、それを歩いて渡るのは不可能でした。

 主はヨシュアに命じて、「祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」と言われ(8節)、それを受けたヨシュアは、「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」と民に告げました(13節)。

 祭司たちの目の前には、川幅一杯に水のみなぎった川があります。そんな川の中に立ち止まれるようには見えなかったでしょう。以前、イスラエルの民はモーセに率いられて葦の海を渡りました(出エジプト記14章参照)。しかしながら、そのときは、モーセが手を海に向かって差し伸べたところ、主が激しい東風で海を押し返されので、乾いた地が表われ、民はそこを通ったのです(同21節以下)。

 今度は、川の水は流れています。しかし、彼らは箱を担いで川の中に進みました。ここに彼らの信仰を見ることが出来ます。彼らは、川の水が分かれたから、渡り始めたのではなく、とうとうと流れ下る川に踏み込んだのです。

 それはしかし、無鉄砲ではありません。「川上から流れてくる水がせき止められる」(13節)と言われた主の御言葉を信じ、「渡れ」という主の命令に従って進んだのです。そして神は、お語りになったとおり、ヨルダン川の水をせきとめられたので(16節)、祭司たちは川の真ん中の干上がった川床に立ち止まることが出来、民は皆、川を渡り終えました(17節)。

 私たちが御言葉に従って信仰の決断をするとき、それを試すかのように進路に困難が立ち塞がることがあります。けれども、御言葉に従うときに不思議な平安がその歩みを支え、それが確かに神の御心であることを教えてくれるのです。

 主の御声に耳を傾けましょう。その聞いたところに従い、信仰をもって歩み出しましょう。

 主よ、イスラエルの民は、信仰をもってヨルダン川を渡り、約束の地に入ることが出来ました。そこには、御言葉がありました。そして、主の先立ちがありました。主が共にいて下さるしるしを見ることが出来たのです。今、私たちにも御言葉が与えられています。そして、聖霊が私たちの内に住み、常に共にいて下さいます。日々、信仰によって前進させて下さい。御名が崇められますように。 アーメン