「レビのために彼は言った。あなたのトンミムとウリムを、あなたの慈しみに生きる者に授けてしたさい。」 申命記33章8節

 33章には、「モーセの祝福」が記されています。これは、生涯を終えるに先立ってイスラエルの人々に与えた(1節)、まさに遺言ともいうべきものですが、ヤコブが12人の子らを祝福した出来事(創世記49章)に、その先例を見ることが出来ます。

 一目見て、レビとヨセフをモーセが特別扱いしていることが分かります。語られている分量が明らかに違うからです。そのうち、ヨセフについての祝福は、ヤコブの祝福を受けてのものといってもよいと思いますが、レビについては、ヤコブとモーセは全く違います。

 ヤコブは、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間にわけ、イスラエルの間に散らす」と言っていました(同49章5~7節)。

 このような呪いの言葉が語られたのは、妹ディナがヒビ人ハモルの子シケムに辱められたことに腹を立て、二人が策略を巡らしてシケムの町の男を皆殺しにし、町中を略奪するという事件を起こして、イスラエルを苦境に立たせたためです(同34章1節以下、30節)。

 モーセの祝福には、シメオン族が抜け落ちています。約束の地に入った後、シメオン族の嗣業の地が与えられず、ユダ族の割り当ての中から、17の町とそれに属する村を分けてもらっただけでした(ヨシュア記19章1節以下)。まさに、「ヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」というヤコブの呪いの言葉どおりの結果になっているわけです。

 そう考えると、モーセがレビに与えた祝福の言葉は、まさに特別です。ヤコブの呪いが祝福に変えられています。そうされた理由は、モーセがレビ族の出だからなのでしょうか(出エジプト記2章1節以下、民数記26章57節以下)。モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出す指導者として、主なる神によって選ばれました(出エジプト記3章1節以下)。

 ただ、モーセが指導者として選ばれたのは、彼が有能だったからでも、雄弁だったからでもありません。神の召しを受けたとき、「わたしは何者でしょう」とモーセは言い(同3章11節)、「わたしはもともと弁が立つ方ではありません」と辞退しようとしています(同4章10節)。

 しかるに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われ(同3章12節)、「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(同4層12節)と答えられています。つまり、神がモーセを指導者として立てたのは、彼の雄弁さや指導力を期待してのことではなかったわけです。

 ここに、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(第一コリント1章27~29節)という原則が示されているように思われます。

 つまり、レビは神に祝福を受ける資格を何も持っていませんが、神の憐れみにより、有力な者を辱めるために選び出され、神の聖所で務めを果たす使命が与えられたのです。

 モーセは、冒頭の言葉(8節)で「あなたのトンミムとウリムを、あなたの慈しみに生きる者に授けてください」と言いました。「トンミムとウリム」とはどのようなものか、詳細は不明ですが、神意を悟るために用いるくじのようなものだったと考えられています。つまり、「トンミムとウリムを授けてください」という求めは、神の御心を知ることが出来るようにという祈りです。

 神の憐れみによって選ばれ、その慈しみの内を歩む彼らにとって、神の御心を知り、それを忠実に果たす以外に、彼らが生きる道はないのです。

 それは、主イエスによって選ばれた私たちも、同様です(ヨハネ15章16節)。主につながっていなければ、実を結ぶことは出来ません。農夫の手入れ、即ち神の助けがなければ、豊かな実りは期待出来ません(同15章1,5節)。私たちには、神の御旨を悟るために、神の御言葉(聖書)と聖霊が与えられています。

 日毎に主の御言葉を求め、主の御前に進みましょう。御言葉を通して神の御旨を知り、素直に聴き従うため、御霊の満たしと導きを祈り求めましょう。


 主よ、あなたはぶどうの木、私たちはその枝です。つながっていなければ、実を結ぶことは不可能です。豊かに実を結ぶことが出来るように、御言葉と御霊によって教え導いて下さい。それによって主の栄光が表されますように。 アーメン