「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。」 申命記32章10節


 31章30節以下の段落には、モーセがイスラエル全会衆に語り聞かせた「モーセの歌」が記されています。どのような節回しで歌われたのか、よく分かりません。けれども、「すべての言葉を心に留め、子どもたちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせ」(46節)るために、歌にして思いを伝えるというのは、それが人々の記憶に留まる上で、有効な手段といってよいでしょう。

 ただ、歌の内容はなかなか厳しいものです。「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方」(4節)と、主の真実さをたたえる一方、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか」(5,6節)と、不実なイスラエルの民をばっさりと切り捨てています。

 モーセが40年に亘り、イスラエルの民と共に荒れ野を旅する生活を通して、彼らの不平不満、ゆえなき非難、神への不信に悩まされて来たからこその表現でしょう。勿論、だからといって、彼らを呪おうとしているわけではありません。

 9節に、「主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業」とあります。これは、日本には日本の神がおられ、中国には中国の神がおられ、そしてイスラエルにはイスラエルの神がおられるというような、そしてそれは、神々の会議において、その割り当てが決められたかのような表現です。ただ、イスラエルを割り当てられた主は、国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割り振られた「いと高き神」(8節)、即ち天地万物の創造主なのです。

 一方、主なる神に割り当てられたイスラエルは、しかし、最高の民ということではありません。冒頭の言葉(10節)で「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ」と言われるように、彼らは荒れ野を彷徨っていたような存在でした。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活で呻き苦しんでいたのを、そうした言葉で表現しているのでしょう。また、荒れ野の生活で民が示した神への不信をそう言い表したということも出来ます。

 つまり、イスラエルの民が優秀な民だから、主がそれを選んで嗣業の民とされたのではなく、主の助けがなければ、そのまま荒れ野で滅びるほかないような存在だったというわけです。主はイスラエルの嘆きを聞かれ、その苦しみの様子を目に留められました。そして、モーセを遣わし、民をエジプトから救い出されました。荒れ野を旅する間、親がその子を守るように、彼らを「囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」のです。

 また、神の民としてよき訓練も行われました。「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり」(11節)というのは、雛の巣立ちを親鷲が促している様子でしょう。「羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶ」というのは、巣から飛び立った雛が上手く飛べなくて墜落しそうになるのを空中でキャッチし、巣まで運び上げて、再び飛び立つようチャレンジさせるということです。

 40年の荒れ野の生活は、イスラエルの民が神を信頼し、その導きに忠実に従うための訓練のときでした。しかしそれは、突き放したスパルタ式の訓練などではなく、まさに「御自分のひとみのように守る」という、注意深く慎重に配慮の行き届いたものだったのです。

 13節以下は、約束の地に入ってからの経験を歌っているものであるように見えますが、いずれにせよ、イスラエルの民は慈しみ深い神の憐れみに満ちた取り扱いを受けながら、「肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮っ」(15節)て、主を怒らせました。

 「エシュルン」とは、「正しい者」という意味ですが、イスラエルの愛称と考えられます(イザヤ書44章1,2節参照)。不実な民が正しい者となるようにという神の期待が込められた呼び名ではないでしょうか。しかし、なかなかその期待に応えるものではなかったわけです。

 モーセの執り成しがなければ、荒れ野で滅ぼされて当然の所業でした。彼らが約束の地に入ることが出来るのは、神の恵み、神のイスラエルの民を思う真実のゆえです。そうした神の恩寵を忘れず、御言葉を心に留め、忠実に聴き従う者にならせていただきたいと思います。


 主よ、罪の荒れ野を彷徨い、滅びを刈り取ろうとしていた私を見出し、救いの恵みに与らせて下さったことを感謝致します。今も注意深く私を見守り、祈りに耳を傾けていて下さいます。共にいて助けて下さいます。主に信頼し、御言葉に従う者として下さい。今日も御言葉を頂きます。 アーメン