「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 申命記30章14節


 15節に、「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」と記されています。命か死か、幸いか災いか、祝福か呪いか。申命記には、この究極の二者択一が何度も出て来ます。勿論、どちらを選んでもよいというはずはありません。「命を選び」、幸いを得よ、祝福を得よと言われているのです(19節)。

 11節に、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」とあります。教えを理解し、実行するのは難しくないのだから、それを行って、祝福を得よというのです。

 ここで、「難しい」の原語は、「不思議(パーラー)」という言葉で、神の御業などの形容に、「驚くべき」とか「奇しき」と訳されて、普通の人間が理解することの出来ない不思議な出来事という意味で用いられます。しかし、ここでは、「難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない」から、誰もが理解し、実行することが出来ると言われます。

 勿論、あらゆる律法、すべての戒めを行えと言われて、それが完璧に出来る人もまたいないでしょう。「それらのことは幼い時からみな守ってきました」と答えた青年も、主イエスには、それが完全でなかったことを見抜かれていました(マタイ19章16節以下)。

 しかし、神の赦しと救いに与り、神の愛を知った者として、命令に従いたいと願い、教えを実行しようと努力すること、神に近づこうとして歩み始めること、それがどんなに弱々しく、ゴールまでほど遠いものであっても、その一歩一歩を神は喜んで下さるにちがいありません。そして、よい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を完成して下さると、信じます。

 戒めが難しいものではないという根拠について、冒頭の言葉(14節)で、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と言っています。

 これは先ず、神の御言葉を繰り返し朗読することです。御言葉が「口にある」とはそのことです。そして「心にある」とは、御言葉を信じることです。私たちも、朝毎に神の御言葉を聞いて神の御心を示され、その言葉を何度も思い起こし、思い巡らして、その恵みを味わいたいと思います。

 パウロが、この言葉をローマ書10章8節で引用しています。そして、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」と解釈しました。つまり、口と心にある「御言葉」とは、主イエスのことを指していて、口で「イエスは主である」と告白し、心で「神がイエスを復活させた」と信じるなら、救われる(同9節)と説いているのです。

 主イエスを信じて心に迎え、主の御言葉を語れ、主イエスを証しせよということですね。だから、「すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(同12節)とも言っています。

 こうした言葉の背後には、パウロ自身の信仰体験があると思います。迫害者をも愛し憐れみ、救おうとされる主イエスの愛に触れて目が開かれ、主イエスを信じる者となりました。御霊の力を受けて、主イエスの愛と救いを証しする者となりました(使徒言行録9章)。

 パウロは、彼の心に主イエスが住まい、もはや自分ではなく、キリストが生きているというのです(ガラテヤ書2章20節)。そして、どのような困難にも迫害にも気落ちしないで主を証しし、福音を語る時、彼の心には御霊を通して神の愛がいよいよ豊かに注がれ、喜びに満たされました。彼は、艱難さえも喜ぶことが出来る者とされていたのです(ローマ書5章1~5節)。

 日々神の御言葉に耳を傾け、それを行うことにより、岩の上に家を建てる賢い者とならせて頂きましょう(マタイ7章24,25節)。御言葉に土台し、導きに従う者は、どんな世の嵐が吹き荒れ、荒波が押し寄せてきても、神の祝福の内に守られるからです。主から受けた恵みを証しするため、御霊の満たしと力を祈り求めましょう。主は、求める者に聖霊を下さるからです。

 主よ、繰り返し背いたイスラエルを絶えず憐れみ、何度も祝福の道を示されました。そこに赦しを見ます。救いを見ます。今日私たちがあなたに従って歩むことが出来るのも、主が私たちを憐れみ、招き続けていて下さるからです。感謝をもって常に「イエスは主なり」と告白して参ります。私たちの歩みを守り導いて下さい。その恵みを証します。聖霊を与えて下さい。御名が崇められますように。御業がこの地に行われますように。 アーメン