「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。」 申命記9章6節


 新共同訳聖書は、申命記9章に、「かたくなな民」という小見出しをつけています。「聞け、イスラエルよ」(1節)で始まる9章は、6章4節の言い回しを思わせますが、冒頭の言葉(6節)で、「あなたはかたくなな民である」と断じています。

 13節にも、主の言葉で、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である」と記されています。しかしながら、かたくなな民であるから、ひどい目にあわせるぞというような内容ではありません。自分たちが頑なな民であることを悟り、神の御前に謙りなさいというのが、著者の意図するところでしょう。

 それは、「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい」(6節)と言われているところからも、窺うことが出来ます。このように言われるということは、カナンの地に入り、そこを占領出来たとき、自分たちが正しい者であったから、善い者であったから、神がこの良い土地をお与え下さったのだと自惚れる者が出て来るということを、予見しているわけです。

 そして、その自惚れは、神が恵みとしてお与え下さったものを、当然自分たちに与えられるべき報酬のように看做してしまうことでしょう。ひいては、自分たちが手に入れたものはすべて、自分たちが苦労して勝ち取ったものだと、一切の栄光を横取りしてしまうかもしれません。

 というのも、イスラエルの民はエジプトを脱出して以来、主に背いて何度も神を怒らせ続けていたためで、そのことが7節以下に数々記されています。

 「かたくな」とは、「自分の考えや態度を守って、いくら他人が説得しても、それに従おうとしない様子」と国語辞典に記されていました。そうであるならば、「かたくなな民」と断じられるイスラエルの民が、約束の地に入ってから謙遜になり、神の御言葉に聴き従うようになると期待するのは、かなり難しいことではないでしょうか。

 それはあたかも、カナンの地にアナクの子孫がいて、イスラエルの民が約束の地に入って来るのを阻もうとしているのに似て、「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」と言わざるを得ないように(2節)、誰がイスラエルの民を回心させることが出来ようかといったところでしょう。

 イスラエルの民は、かつてカデシュからカナンの地を探ったとき、そこにアナク人を見かけ(民数記13章28節)、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(同31節)と結論しました。神はそれを思い出させるかのように、「あなたは今日、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている」と言われました(1節)。

 けれどもそれは、追い払うのは不可能だと言われたというのではありません。自分たちの手で打ち勝つことは出来ないだろうけれども、「今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい」(3節)と言われるのです。

 神がアナク人を滅ぼされるのは、「この国の民が神に逆らうから」(4,5節)であり、イスラエルの民がカナンの地を獲得することが出来るのは、神がその地を与えると約束しておられたからです(28節参照、創世記12章1節以下)。つまり、神ご自身のイスラエルの民を思うご真実が、民の頑なさに勝っているわけです。彼らは神に背き続けて、その地を追い払われたこともありますが、徹底的に捨てられてしまうことはありませんでした。

 そのことについて、パウロが、「イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお蔭で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。・・・神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ11章28,29,32節以下)と記しています。

 主の御前に謙りましょう。神が高めて下さいます。あらゆる恵みの源である神が信仰に立つ私たちを強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さるからです(1ペトロ5章6,10節)。

 主よ、あなたは私の愚かさ、頑なさをご存知です。にも拘らず、私が弱かったとき、罪人であったとき、敵対していたときに、独り子キリストが贖いの供え物として死なれ、愛を示されました。和解の恵みに与りました。感謝をもって御前に進み、朝毎に御言葉を頂きます。私を試みに遭わせず、悪しきものからお救い下さい。 アーメン