「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」 申命記6章16節


 6章4~9節は、旧約聖書中、最もよく知られている箇所の一つです。今も、信心深いユダヤ人は、これらの御言葉を、文字通り徹底的に実行しようとしています。これらの御言葉を記した巻紙を小さな容器(「聖句箱」という)に入れ、額に結びつけています。また、家の門柱には、それと似た別の容器(「メズーザー」と呼ばれる)を取り付けています。そして、子どもたちに律法教育をしっかりと授けます。

 5節の、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という御言葉は、キリスト教会でもよく知られています。それは、主イエスが律法の専門家から、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、申命記6章5節のこの御言葉が、最も重要な第一の掟であるとお答えになったからです(マタイ22章34節以下)。

 ユダヤ人のように、8,9節を厳格に実行することを、主が望んでおられるのかというと、それはそうではないのでしょう。新約聖書において、聖句箱やメズーザーが話題になったことは一度もないからです。

 ただ、腕や額、門や柱に書き記すというのは、単にそうすればよいということではなくて、いつも神の御言葉が目につくところにあるというほどに、主の御言葉が私たちに生活の中に息づき、常に神が神として崇められ、注意深くその御言葉を聴く心の姿勢が求められているのです。

 勿論、順調な日々ばかりではありません。逆風にさらされているようなときもあります。そんなとき、私たちの心はどうなっているでしょう。じっと主を信頼し、御言葉に耳を傾け続けることが出来るでしょうか。

 イスラエルの民はそんなとき、神に不平を言い、呟きました。時には強く反発し、こんな荒れ野で死にたくない、約束の地を目指すより、エジプトに帰った方がよいと言い出しました。

 冒頭の、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」という言葉(16節)は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山を目指してレフィディムに宿営していたとき、飲み水がなくて不平を言ったときの出来事を指しています(出エジプト記17章1節以下)。

 そのときモーセが民に、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言っています(同2節)。それは、同7節にあるように、イスラエルの民が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、主を試したからでした。

 水が与えられれば、主がおられるしるし、与えられなければ、主はおられないのだということでしょう。それも、水が与えられなければ、モーセを石で打ち殺すぞといっているような、大変緊迫した状態です。つまり、モーセが神を騙ってこんな荒れ野に連れて来て、自分たちに水も与えず殺そうとしているのではないか、と詰め寄ったわけです。

 そのとき主は、モーセに杖で石を打てと命じ、そこから水が出るようにされました。その場所をモーセは、「マサ(試し)とメリバ(争い)と名付け」ました(7節)。このように名付けられたことで、民の不信仰が重大視されていることが分かります。それは、苦難のときに神は自分たちを救って下さるかどうか、神を試すということ、あるいは、どこまで神は自分たちの不信仰、不従順を許されるのかと、神の忍耐を試すようなことでしょう。

 いずれにせよ、神の愛を疑い、試すということは、イスラエルの民は、神を愛し、信頼する心を持っていないということです。もしも神の民が、神への信頼を失い、その恵みの御業を忘れ去るなら、彼らはやがて、神に忘れられ、その恵みを失うことになるでしょう。バビロン捕囚が起こったのは、まさしく彼らの不信仰、不従順の故だったのです(15節、4章26節以下)。

 日々主の御言葉に耳を傾け、その教えを心に留め、主の目にかなう正しいことを行いましょう。主が幸いをさずけて下さるからです。

 主よ、あなたこそ私たちの神です。全身全霊をもってあなたを愛します。あなたに信頼し、御言葉に聴き従います。すべてを明け渡します。委ねます。どうか私たちを試みに遭わせず、悪しき者からお救い下さい。御名が崇められますように。 アーメン