「イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」 申命記4章1節  

 4章は、28章まで続く、モーセが語り教えた「掟と法」(1節)の序文という役割を果たしています。

 アルノン川からヘルモン山に至る、ヨルダン川東部全域を占領したイスラエルの民は、すぐにも約束の地に進軍して行こうとしています。しかし、モーセはヨルダンを渡ることが出来ません(3章27節)。そこで、イスラエルの民が約束の地において守るべき「掟と法」を、ここに語り聞かせているのです。

 4章を読んで気がつくのは、「主は火の中からあなたたちに語りかけられた」という言葉が何度も繰り返されていることです(12,15,33,36節)。これは、エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイの荒れ野にいて、シナイ山に降られた主が民に語りかけたときのことと言われています(11,15節、出エジプト記19章18節)。

 火は一般に、調理、暖房、灯火、金属の精錬などに用いられますが、ときに破壊や裁きのためにも用いられます(創世記19章24節、出エジプト記32章20節、レビ記20章14節、申命記9章3節など)。特に、神の幕屋では、祭壇でいけにえを献げ、香を炊くために欠かせません。

 アロンが祭司として最初に献げ物を献げたとき、「主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くし」(レビ記9章24節)ました。それは、祭壇のいけにえを神が受け取られたしるしであり、祭壇の火は本来神から出たものということを示しているわけです。祭壇の火は絶やさず燃やし続けるようにという規定があるのは、そのためかも知れません(同6章5,6節)。

 火の中にご自分を顕され、火の中から語りかけられた神の教えは、イスラエルの民に「知恵と良識」を与えるものでした(6節)。その知恵の内容は、いつ呼び求めても、神が近くにおられるということであり(7節)、また、その神から正しい掟と法が与えられているということでした(8節)。つまり、主なる神と深い交わりがあるということ、それゆえ、正しい教えを聞くことが出来るということです。

 火の中から語りかけられたという言葉に続いて、「声のほかには何の形も見なかった」と言われています(12,15節)。そこで、神の形を見てはいないのだから、どんな形であれ、神の像を造ってはならないと、16節以下で命じられています。これが、十戒の第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章4節)の根拠といって良いのでしょう。

 さらに、神とイスラエルの民とは、神の御声を通して信仰の交わり、その関係を結んでいるということです。御声は、文字ではありません。読めば分かるという、自分の主体的な営みではありません。声を出されるお方(神)がおられ、その御声を聞く者(イスラエルの民)がいて、「御声を聞く」ということになるわけです。その意味で、「聞く」というのは、受動的な営為ということになります。

 そして、7節の「いつ呼び求めても、近くにおられる神」とは、神が近くにおられて、民の呼び求める声を聞いて下さるということですから、声を聞くということが双方向でなされることになります。また、「近くにおられる」とは、その関係の近さ、深さを示しています。

 冒頭の言葉(1節)で、「わたしの教える掟と法を忠実に行いなさい」という言葉を、原文に即して忠実に訳すならば、「聞け。わたしが教える掟と法を、行うために」という言葉になります。「聞け」(シェマー)は2人称単数・命令形の動詞です。神の教えを実行するために、注意深く聞きなさいということです。聞く信仰が求められているわけです。

 パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章16節)と言っているのは、このことだと思います。今、私たちに語りかけられる神の御声に耳を傾けましょう。神に聴いて従う者となりましょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせて下さり、有り難うございます。常に近くにおられる生ける神の御言葉を聴くことが出来ますように。聴いた御言葉に信仰をもって従うことが出来ますように。信仰はキリストの言葉を聴くことによって始まるからです。御旨を行う者とならせて下さい。 アーメン