「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザバブがあるスフに近いアラバにおいてであった。」 申命記1章1節


 今日から、申命記の学びに入ります。「申命記(Deuteronomy)」という名前は、70人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)の申命記17章18節に出てくる「デウテロノミオン(第二の律法)」という単語から来ています。もとのヘブライ語は「ミシュネ」(第二の、二倍の、写し)で、口語訳や新共同訳聖書では、文脈から「律法の写し」と翻訳しています。

 「申」という漢字には、「重ねる、繰返す」という意味があり、申命記とは、命令が繰り返されている書物ということになります。つまり、申命記は、シナイ山で与えられたものとは別の(第二の)律法ではなく、同じ律法が、約束の地を前にして、もう一度モーセの口を通して語られている(律法の写し)というわけです。

 申命記の原題は、ハッドゥバリームと言います。冒頭に「これらの言葉」(1節)と訳されている言葉です。「ハ」は定冠詞 the 、「ドゥバリーム」は「ダーバール」という単語の複数形で、意味は「言葉」 word です。定冠詞つきの「言葉」 the words で、「神の御言葉」ということになります。申命記は、モーセの口を通して語られた、神の御言葉の書なのです。

 さらに、「ドゥバリーム」は、「行動」 acts、「出来事」 events,things という意味にもなります。つまり、語られた言葉がそのまま行動、出来事になるというのです。それは、語られた言葉が、力ある神の言葉、真実な言葉だからです。

 神は、その口でお語りになられたことを、御手をもって実行されます(列王上8章20節、24節)。「光あれ」と神が言われると、光が出来ました(創世記1章3節)。

 そして神は、ご自身の愛を私たちに伝えるために、主イエスをお遣わしになりました。そのことについて、ヨハネによる福音書1章14節には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記してあります。

 ここで「言(ことば)」に、「葉」をつけていないのは、「言(こと)」が「事(こと)」に通じ、神の言葉が現実のものとなるということを、その文字で伝えようとしているのです。そうして、主イエスこそ、神の愛を伝えるための神の言葉であり、神の愛の言葉が姿を取って現れたのが、主イエスなのです。

 それは、逆に言えば、私たちが通常用いる「言葉」は、「葉」を茂らせているけれども、「事」に通じていない、実を結ばない、空しいものになっていないかという問いかけでもあります。これは、主イエスがエルサレムに入城される前、葉ばかり繁らせて、実のなかったいちじくを呪われ、根元から枯れてしまうという出来事を思い起こさせます(マルコ11章12節以下、20節以下)。

 柏井宣夫先生が著書「真実の言葉を求めて」の序文に、「話すとは、沈黙を破って言葉を発することである。しかし、言いっぱなしということもある。語るとは、時に『だます』という意味にもなる。これは、言葉が不十分な道具である以上に、言葉を使う人間の側に問題がある」と述べておられますが、考えさせられる言葉です。

 言葉の真実さということで思い起こすのは、「一切誓いを立ててはならない」(マタイ5章34節)と言われた主イエスの言葉です。「誓い」は、神に対して、ある行為の実行を決意し、約束することです。神と約束するのですから、誠実に履行すべきなのは言うまでもありません。

 それを主イエスが、「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、「誓う」と言わなければ、有言不実行でもよいということではありません。日頃から、言行が一致していれば、特に「誓い」も「保証」もいらないでしょう。主イエスは、「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のです(第一ペトロ書2章22節)。確かに、主イエスこそ誓いも保証も必要とされない、真実なお方でした(第二テモテ書2章13節)。

 絶えず真実をもって語りかけて下さる主イエスの御言葉に耳を傾け、キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿るようにし、何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主イエスの御名によって行い、感謝して心から神をほめたたえましょう(コロサイ書3章16,17節)。

 主よ、私がいかに不真実な人間であるか、あなたが一番よくご存知です。しかるに、あなたは私に対して、絶えず真実を語り、真実を示し続けておられます。その計り知れない愛と恵みのゆえに、心から感謝し、御名をほめたたえます。私は今、真実な方の内に、御子イエス・キリストの内にいるのです。ハレルヤ!アーメン