「イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない。」 民数記36章7節


 いよいよ、民数記最後の章です。民数記1章1節に、「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった」、とありました。「荒れ野にいたとき」(ベ・ミドゥバル)が、民数記の原題です。

 そして、36章13節には、「以上は、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主がモーセを通してイスラエルの人々に命じられた命令と法である」と記されています。つまり、民数記には、シナイ山のふもとに広がっていたシナイの荒れ野から、もう一歩でカナンというヨルダン川の東側、モアブの平野まで、およそ39年に及ぶシナイ半島の荒れ野の旅において起こった出来事が記されていたわけです。

 1章と26章に、「民数記」という題がつけられる根拠となった、イスラエルの人口調査の記事があります。1章では、エジプトを脱出した民の数が数えられます。そして、25章までに、それらの人々はモーセに不平を言い、神に背いたため、カレブとヨシュアの二人を除き、荒れ野で死に絶えてしまいました。

 26章で数えられたのは、約束の地に入ることが出来る民の数で、彼らは荒れ野で死に絶えた民の子どもの世代の人々です。言ってみれば、25章までの荒れ野の旅で、世代交代がなされたわけです。

 36章には、「相続人が女性である場合の規定」が記されています。これは、27章の、「ツェロフハドの娘たちの申し出」と関連があります。マナセ族のヘフェルの子ツェロフハドには、息子がいませんでした。娘たちがモーセのところに来て、「男の子がないからといって、どうして父の名が氏族の中から削られてよいでしょうか。父の兄弟たちと同じように、わたしたちにも所有地をください」と申し出(27章4節)、了承されました(同7節以下)。

 36章ではそのことを取り上げて、神はツェロフハドの嗣業の土地を娘たちに与えるようにされたけれども、娘たちが他の部族の男子と結婚すると、その土地は他部族に移ってしまい、マナセ族の嗣業の地が削られてしまうではないかという訴えが、マナセ族の家長たちによってもたらされたのです(2節以下)。

 それに対するモーセの回答は、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。ただ、父方の部族の一族の者とだけ結婚できる」(6節)というものです。通常、結婚相手を同族の者に限るというのは、劣性遺伝を出現させる確率が高まるので、歓迎されません。だから、そのような制限を設けず、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい」というのが大原則です。

 しかしながら、それでは、マナセ族の嗣業の地が損なわれてしまいます。冒頭の言葉(7節)に言うとおり、「イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない」のです。

 そこで、「嗣業の土地を相続している娘はだれでも、父方の部族の一族の男と結婚しなければならない」(8節)という制限が設けられるのです。それほどに、嗣業の地を守ることが重要だということです。

 ただ、イスラエルの民は、約束の地カナンに、まだ一幅の土地も手に入れてはいません。「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」にいるのです。けれども、この規則を通して、必ず嗣業の地を得ることが出来ると確証しているのです。その地に入ったならば、神の御言葉に誠実に聴き従うように、彼らは荒れ野で訓練されて来たのです。

 神がお与え下さった恵みを、一つとして損なうことなく、隣り人へ、次の世代へ、受け渡していくことが出来るでしょうか。御霊の導きを祈りつつ御言葉に耳を傾けましょう。上からの力を受けて御言葉を実行しましょう。

 主よ、私たちは勿論、神の子として生まれた者ではありません。しかしながら、主イエス・キリストにより、天に国籍を持つ者として頂きました。今は、御国に入るために、御言葉に誠実に聴き従うように、この地で訓練を受けています。愛する子として訓練して頂けることを、感謝致します。 アーメン