「もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう。」 民数記33章55節


 33章には、「エジプトを出てからの旅程」が記されています。40箇所余りの宿営地の名が記されていますが、現在でも、殆どの場所が確定されてはいません。

 ルートも、シナイ半島の北方を通ってカデシュに直行したと考える北方説、シナイ山での主の顕現が活火山の活動を思わせるので(出エジプト記19章18,19節参照)、シナイ半島の中央を横断して、エイラトからアラビア半島をアカバ湾沿いに南下したところの死火山地帯にシナイ山があるとする中央説、ジェベル・ムーサ(アラビア語で「モーセの山」の意)と呼ばれる山をシナイ山とする南方説と、学者によって概ね三つに分かれます。

 つまり、出発地のラメセス、スコトと、重要な中継点のカデシュ・バルネアを除くと、場所が特定される宿営地は殆どなく、十戒を授けられたシナイ山でさえも、これが絶対にそうだというものではないのです。ただ、伝統的に南方説がそれらしいと考えられて来ました。

 そうなると、主の命令によってモーセが宿営地を書き留めたということですが(2節)、その目的は、宿営地の場所を知るということよりも、そこで何があったのかということを忘れないようにするため、ということなのでしょう。民数記のヘブライ語の原題が「荒れ野で」(ベ・ミドゥバル)でした。まさに、荒れ野で何があったのかを、民数記は記しているわけです。

 イスラエルの民は、シナイの荒れ野で40年を過ごしました。神の助けがなければ、およそ考えられない年数です。しかし、それはまた、イスラエルの民が神に背いた記録でもあります。彼らが素直に主を信じ、その導きに従っていれば、もっとずっと早く、カナンの地に入ることが出来たでしょう。

 その最大の理由が、約束の地を探った斥候たちがもたらした悪い情報で神に泣き言を言い、エジプトに戻ろうとして神の怒りを買い、約束の地を前に回れ右、40年の荒れ野の旅に出発させられた、カデシュでの出来事です(13,14章)。不信の罪がいかなる災いをもたらしたか、決して忘れてはならないということです。

 そして、50節以下に、「ヨルダン川を渡るにあたっての命令」が記されています。まず最初に、「あなたたちの前から、その住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい」(52節)とあります。

 これは、十戒を授かるためにモーセが留守をしていたシナイの荒れ野で、アロンが金の子牛像を造って拝ませたことや(出エジプト記32章)、モアブの女性に惑わされてペオルのバアルを拝んだことが(民数記25章)、その背景にあります。しかしながら、この命令にも拘らず、異教の神を拝む偶像礼拝の罪は、この後、イスラエルから除き去られることはありませんでした。それほどに根深い問題だということです。

 国内から、異邦の民、異教の偶像を完全に一掃出来なかったのは、異邦の民がイスラエルの民よりも強かったからでしょう(ヨシュア記17章16節、23章7節、士師記1章19節など)。ダビデ王の時代に力関係が逆転した後も、それをしなかったのは、ヨシュア時代以降長い年月、異教の生活文化に慣らされてしまったからでしょう。それゆえ、内外の試練が襲ってくるたびに、異邦の民と連合すると共に、異教の神々を礼拝しました。

 そして、異教の神々を取り除かなかったイスラエルは、冒頭の言葉(55節)で警告されていたとおり、周辺列強に悩まされ、結局、北イスラエル王国が紀元前721年にアッシリアによって、南ユダ王国は紀元前587年にバビロンによって滅ぼされ、異邦の地に捕囚として連れ去られる結果になってしまうのです。

 私たちは、自分の生活の中から、神の御旨に沿わないものを追い払っているでしょうか。神に喜ばれないものを持ち込んではいないでしょうか。御言葉に従って点検してみましょう。


 主よ、私の心を探り、あなたを喜ぶ心であるかどうかを点検して下さい。あなたが私と共におられるとき、私は揺らぐことがなく、心喜び、安心して憩うことが出来ます。真理の御言葉に従って歩むとき、満ち足りて永遠の喜びをいただきます。常に、御手の内に私を守って下さい。あなたを避け所といたします。 アーメン