「しかし、今はアマレク人とカナン人があの平野に住んでいるから、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。」 民数記14章25節


 パランの荒れ野、カデシュ・バルネアから、神様が下さろうとしているカナンの土地を偵察したところ、そこは本当に豊かな土地でした(13章23,27節)。けれども、先住民はとても強そうで(同28,29節)、斥候たちは、戦っても自分たちに勝ち目はないと考え、カナンの地に向かっていくことに反対しました(同31節以下)。

 この悪い情報を聞いたイスラエルの民は、エジプトか、この荒れ野で死ぬ方がまだましだ。カナンの地に行けば、自分たちは殺され、妻子は奪われてしまう。そうなる前に、エジプトに引き返そう、と言います(2~4節)。このとき、イスラエルの民にとって、エジプトの国を出たことは、神の自分たちに対する悪意としか思えなくなっていたのです。

 それを聞いた神は、もう勘弁ならない、すぐにも疫病でイスラエルを打ち滅ぼしてしまうと言われますが(11,12節)、モーセの、「神は、与えると誓った地に民を導き入れることが出来なかったため、荒れ野で殺したのだ、と人々は言うでしょう。今、わが主の大いなる力を現わしてください」(13節以下、16,17節)という執り成しの言葉を聞いて、いったん振り上げた拳をおろされます。その時に語られたのが、冒頭の言葉(25節)です。

 イスラエルの民がいるカデシュから、カナンの地はもう目と鼻の先です。そこまで来たのに、「回れ右、前に進め」という号令がかかりました。目指すのは約束の地ではなくて、荒れ野です。イスラエルの民を疫病で直ちに打ち滅ぼされはしませんでしたが、神に言い逆らった者は荒れ野で死に絶え、約束の地に入ることは出来ないと言われました(26節以下、35節)。

 神は、神を否む罪を決して蔑ろにはなさいません。神に従って約束の地に進むより、荒れ野で死んだ方がましだと、自ら語ったとおりになるのです(2節)。子どもたちも、親が神に反抗した罪の呪いを負って、40年の荒れ野の生活を余儀なくされました(34節)。神を否む者は、父祖の罪が子孫に三代、四代までも問われるのです(18節、出エジプト20章5節)。

 イスラエルの民が約束の地に入れなくなったのは、彼らが御言葉に信頼出来なかったからです。斥候の言葉を聞いて、御言葉に従うのは無理だ、問題が大きすぎる、と考えたのです。そのとき、神が小さく、あるいは、神の姿が全く見えなくなっていたのです。

 ただ、エフネの子カレブは違いました。彼は、目前の問題よりも、神の方が大きいと考えたのです。御言葉は必ず実現すると信じることの出来た者はなんと幸いでしょうか。カレブは、ヌンの子ヨシュアと共に約束の地に入ることを許されました。多数決のルールに従えば、12人中10人が反対したのですから、行かないという結論になるわけですが、肝心なのは、神の御心はどうなのか、ということです。

 荒れ野に向けて出発せよと言われていますが、荒れ野という場所が問題なのではありません。神が共におられるなら、たとえ嵐が来ようが、飲み水、食べ物がなかろうが、それが問題ではありません。神のもとにすべての問題の解決があるからです。彼らはカデシュ、その名は「聖所」という意味の場所にいました。まことの神を仰ぐなら、荒れ野でありましても、そこは神を礼拝するところとなるのです。

 荒れ野は私たちを試します。私たちが誰を頼りにしているのか、何を信頼しているのかを試します。あなたが信頼しているのは物ですか、人ですか、自分自身ですか。それとも神ですか、主イエスですか。荒れ野は、私たちが徹底的に神を信じ、その御言葉を信頼して従うことが出来るようにように訓練してくれる場所なのです。

 また、荒れ野は、裁きの場所、滅びの場所というだけではありません。明日を約束する道でもあります。子どもたちは約束の地カナンに導き入れられ、その土地を知るようになる、と約束されています(31節)。明日を信じて踏み出しましょう。明日を約束する主イエスを信じましょう。


 主よ、現実に振り回され、目に覆いが掛かってあなたが見えなくなる私たちの不信仰、不従順をお赦し下さい。いつも御顔を仰ぎ、御言葉を拝聴させて下さい。私たちを試みに遭わせず、悪しき者からお救い下さい。御言葉に信頼を置き、希望をもって前進することが出来ますように。 アーメン