「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目であって、それはあなたたちが代々にわたって守るべき不変の定めである。」 民数記10章8節


 主はモーセに銀のラッパを2本作らせます(2節)。それは、音色の違うもの、つまり長さや大きさの違うラッパだったと思います。音色が違っていなければ、二つとも吹かれているのか、一つだけなのか、区別が出来ません(3,4章参照)。二つとも吹かれれば民全体を招集、一つだけだと指導者が召集されるということですから(3,4節)、区別がつかなければ、混乱してしまいます。

 そのような、民を招集するラッパとは別に、出陣ラッパもありました。それは、旅立ちのとき(5節)、また敵を迎え撃つときに吹かれました(9節)。召集ラッパと出陣ラッパの吹き方はどんなものであったのか、色々説がありますが、概ね、召集には長く1回、出陣には短く数回吹き鳴らされたということのようです。

 パウロが、「ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(第一コリント14章8節)と言っていることから、ラッパの吹き方やその音色について、当時の人々は訓練されて、よく理解していたのであろうと思われます。また、パウロは民を招集するためのラッパを、最後のときの合図に用いられるとも記しています。

 第一コリント15章51節以下では、そのラッパが鳴ると、主にあって召された者は復活して朽ちない者とされ、そのときまで生きている者は、一瞬にして栄光の姿に変えられると言い、第一テサロニケ4章16節以下でも、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られ、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、生き残っている者は空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられると言っています。

 即ち、そのラッパは単なる合図なのではなく、神の権威がそこに表わされていると見ることが出来ます。だから、冒頭の言葉(8節)にあるように、「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目」であり、「代々にわたって守るべき不変の定め」なのです。祭司たちは、神の御旨を知って民を集め、あるいは、旅立ちのラッパを吹きます。また、敵を迎え撃つ備えをさせます。

 特に、敵を迎え撃つ出陣ラッパは、主なる神に助けを求めるものでもありました。出陣ラッパが吹かれると、「主の御前に覚えられて、敵から救われるであろう」と言われています(9節)。主ご自身が立ち上がって下さり、イスラエルのために戦って勝利をお与え下さるというのです(歴代誌下13章12,14節)。

 「主の御前に覚えられる」という表現について、出陣のときだけでなく、祝日や毎月一日にささげる献げ物に向かってラッパを吹くと、神が覚えられるとも言われます(10節)。そうしなければ、神が覚えて下さらない、忘れておしまいになるというのでしょうか。なぜそうなのか明言されていませんが、それは、イスラエルの民を子ども扱いはしておられないということでしょう。

 民の必要については、求められる前から神はご存知です(マタイ6章8節)。敵に襲われたとき、助けを必要としているでしょう。しかし、出陣ラッパが吹かれ、助けが求められるまで、神は待っておられるのです。

 今ひとつは、私たちは本来、神に覚えて頂く資格も権利も持ち合わせていないということではないでしょうか。勿論神は、絶えず私たちに心を留めておられるでしょう。覚えていて下さるでしょう。むしろ、私たちの方が神を忘れ、その教えに背いてきたのです。調子のよい時には神を忘れ、自分勝手に歩んでいて、上手く行かなくなると、「私たちを覚えて下さらないのですか」と訴えるというのは、あまりに虫のよい話ではありませんか。

 その意味で、ラッパは神への祈りであり、祭司が民に代わって神の御前に謙り、その憐れみを求めて吹くのです。神はその、打ち砕かれ悔いる心を求めておられるのです(詩編51編19節)。私たちも、家族、同胞のため、その救いを求めて、恵み、導きを求めて祈りましょう。賛美のいけにえをささげましょう(ヘブライ書13章15節)。


 主よ、御言葉を感謝します。私たち、日本の同胞を顧みて下さい。台風や集中豪雨、また、震災や原発事故で罹災された方々、命を亡くされ、あるいは家を失われた方、生活が破壊された方、避難生活の中で命をすり減らしておられる方々を憐れんで下さい。助け合う心を導いて下さい。御心が地の上に行われますように。私たちを用いて下さい。 アーメン