「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。」 民数記9章15節


 冒頭の言葉(15節)に、「雲は掟の天幕である幕屋を覆った」とあります。この雲は、先ず、神がイスラエルを導いているということを示す徴です。イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、神は雲を使って導かれました。出エジプト記13章に、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き」(同21節)とありました。雲が柱のように立ち、その雲の柱が動いて民を導いたというように書かれております。

 また、神がそこにおられるという徴です。神が確かにおられるという証拠なのです。モーセがシナイ山の上で神様とお会いしたとき、神がそこに降って来られると、雲が山全体を覆ったと書かれております(出エジプト19章9,16,17節)。また、幕屋が完成したとき、雲が幕屋を覆い、主の栄光がそこに満ちました(同40章34節)。冒頭の言葉はそのときのことを語っているわけです。ですから、雲は、神がそこにおられるという徴なのです。

 第三に、雲は覆い包むもの、隠すものです。雲は、神の姿を隠します。神が見えないというより、清い神を見て打たれることから、わたしたちを守ると言ってよいでしょう。一方、雲が私たちを覆ったらどうなるでしょうか。何も見えなくなります。高い山に登ると、実際に雲の中に入ることがあります。そうすると、まわり一面真っ白になります。霧というか、濃い水蒸気というか。ほとんど視界が利かない状態になります。

 神はあるとき、私たちを本当に何も見えない世界に導かれます。その何も見えない状態、何も出来ないような状況で、何をするか。見ることを奪われたら、私たちはどうするでしょうか。必然的に、当然のことながら、耳を澄まします。真剣に耳で聞くという世界が開かれます。心を澄まして、聞くことに集中します。

 イエス・キリストが、これから贖いの死を遂げるために十字架に向かって歩み始めるということを公表し始められてすぐ、三人の代表的な弟子たちを連れて高い山に登られました(マルコ9章2節以下)。主イエスが山に登って行かれると、次第に光り輝く栄光のお姿に変わり、そうして、いつの間にか、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っています。

 そのとき、何が語り合われていたのかは詳らかではありませんが、そこに居合わせたペトロは、「ここに小屋を三つ建てましょう」と言います。いつまでもここに留まりましょうということです。大変興奮していて、自分でも何を言っているのか分からないという有様でした(ルカ9章2節以下)。

 ペトロがそう言っていると、雲が彼らを覆いました。何も見えなくなったのです。もう何も見えなくなったので、わけが分からなくなったのでしょうか。そうではなく、もっとはっきりと分かりました。彼らはそこで神の声をはっきり聞いたのです。

 イエス・キリストが神の子、神の愛する子どもだから、この人に聞きなさい。大切なことを聞きなさい。イエス・キリストから聞きなさい。何も見えなくてもよい。ただ、イエス・キリストから聞きなさい。そういう、信仰の最も大切な核心に触れる門戸がそのとき、ペトロたちに対して開かれたわけです。

 15節以下の段落で、「イスラエルの人々は主の命令によって旅立った」と三度記され、同様に三度、「主の命令によって宿営した」と言われています。主の御声を聞いて移動し、御声を聞いて停泊する。すべて主のご命令の通りにした。三度記すことで、繰返しそのようにした、命令の度にそうしたということを示しています。

 イスラエルの民は、確かにこの荒れ野の生活の中で、主の御声に聞き従うように、訓練されていきました。自分たちを守るものが何もないところで、御言葉に聞き従うことを学び、そして、神の御言葉は必ず実現するという恵みを味わったのです。

 私たちも同じように、主から呼ばれたら立ち上がり、行くべきところへ行き、留まるべきところに留まる。そして、なせと言われることを行う。それが、今私たちの導かれている信仰であり、神の恵みの世界なのです。

 主よ、御声をはっきりと聴くことが出来るように、御顔を仰ぐことが出来るように、私たちの信仰を整え、訓練して下さい。共におられ、内におられる真理の御霊の導きに従い、主の御言葉を守ることが出来ますように。 アーメン