「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。」 民数記6章5節


 冒頭の言葉(5節)に、「ナジル人」とあります。「ナジル人」とは、「聖別する、ささげる、離れる」(ナーザル)という言葉に由来し、「聖別された人、献げられた者」という意味になります。2節には、「男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となる」と言われています。即ち、このナジル人の規定は、主に献身しようとする男女に平等に適用されるわけです。

 「特別の誓願」について、先ず、「ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ブドウ液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない」(3,4節)と言われます。それは、ナジル人である期間中、飲酒などに代表される世の快楽から、決別することを意味しているのでしょう。

 アモス書2章12節に、「しかし、おまえたちはナジル人に酒を飲ませ、預言者に、預言するなと命じた」とあります。アモスが預言者として働いていたのは、ヤロブアム2世の時代です。アモスの言葉は、王ヤロブアム2世のみならず、北イスラエルの民がいかに神に反逆していたかを示しています。

 第二に、冒頭の言葉(5節)のとおり、「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない」とあります。イスラエルの民は、「もみあげをそり落としたり、ひげの両端をそってはならない」(レビ記19章27節)と命じられていましたが、祭司には、「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」と規定されていて(同21章5節)、ナジル人は祭司と同様に扱われていることになります。

 「頭にかみそりを当てない」という言葉は、母の胎内にいるときからナジル人として神にささげられていた士師サムソンが、恋人のデリラに騙されて長い髪が剃られ、力を失ってしまったという記事を思い出します(士師記13章以下、16章19節)。髪を剃られただけで力を失ってしまうなんて、まるで笑い話のようです。

 しかし、同16章20節には、「主が彼を離れられた」とあります。つまり、士師サムソンの怪力は、神がナジル人として献身しているがゆえに与えられていたもので、彼自身のものではなかったこと、それゆえ、ナジル人の誓願がいかに重大なものであったかという証拠でしょう。

 第三に、「主に献身している期間中、死体に近づいてはならない。父母、兄弟姉妹が死んだときも、彼らに触れて汚れを受けてはならない」(6,7節)と記されています。もしも、死者に触れて、献身のしるしである髪を汚したなら、頭をそって清めの儀式を行い、もう一度はじめから誓願をやり直します(9節以下)。最初の誓願期間が無効になったからです(12節)。

 ここで、一般の祭司は、「父母、息子、娘、兄弟、および同居している未婚の姉妹の場合」、その遺体に触れること、彼らを葬る儀式を行うことは許されていました(レビ記21章2節)。父母や兄弟姉妹でも触れるなと言われるのは、「聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ」た大祭司に等しい規定になっており(レビ記21章10,11節)、ナジル人になるというのは、それほどに重大な献身の出来事だということを示しています。

 主イエスから「わたしに従いなさい」と招かれて、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と願った人に対して(ルカ福音書9章59節)、主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われました(同60節)。ここに、主イエスの弟子となることは、ナジル人の誓願のような覚悟を必要としていることを見ることが出来ます。

 主イエスは、「ナザレ人」と言われます(ルカ18章37節など)。それは、ナザレの出身を意味するものですが(マタイ福音書2章23節)、それとは別に、「ナジル人」との関連を考える注解者もいます。確かに主イエスも、生まれる前から、神に聖別された存在だったからです。そしてそれは、私たちのために自らを十字架に贖いの供え物としてささげるための献身でした。

 私たちも主イエスの恵みによって救われた者として、主を畏れ、主に従うことを通して、聖霊の力により、神の国の恵みを広く証しして行きたいと思います。

 主よ、御言葉と聖霊をもって私たちを清めて下さい。常に喜びをもって、主の福音を告げ報せ、その恵みを証しすることが出来ますように。 アーメン