「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。」 レビ記12章8節


 新共同訳聖書には、12章に「出産についての規定」という小見出しがつけられています。その内容は、産婦の汚れの期間と、清めに要する日数、そして、産婦のための贖いの儀式についての規定です。

 男児を出産したときの汚れの期間は7日間(2節)、清めに要する期間は33日、合わせて40日は、外出が禁じられます(4節)。女児の場合には、それぞれ倍の日数が必要と言われます(5節)。

 しかし、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1章28節)と言われた主の御言葉に従って、出産の時を迎えた女性が、「七日間汚れている」(2節)と言われる理由は、よく分かりません。「月経による汚れの日数と同じ」という言葉から、この汚れは、いわゆる律法違反、過失や犯罪などとは全く無縁です。

 ある註解書は、「月経という女性特有の生理現象の期間は、通常妊娠しない=生殖能力があるのに子が生れないときであり、同様に、出産後の33日間は妊娠しない=子が生れないときと考えると、それは、医学的に、また神学的に、『新しい生命に対するネガティブな身体的状態』にある」と説明し、その状態を、「出産における出血の汚れが清まるのに必要なとき」としています。受け入れても良い考え方かとも思います。

 また、7日間の「汚れ」と、33日間の「汚れから清まるのに必要な」期間、家に留まり、「その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と言われているだけですから、これは、産婦が出産後、しばらく安息を得ると共に、清潔で健康的な生活を送るために必要な期間と考えることも出来ます。

 それを、「汚れ」と表現するのはどうかとも思いますが、しかし、そう言われることで、その期間、誰とも接触しないですむならば、また、家事から解放されて安息出来るならば、それも良しとされるように思います。

 ただし、男児の出産では清めに要する日数が40日で、女児では倍の80日になるというのは(5節)、合理的に説明することが出来ません。これは、女性に対する差別的な思想が、その背景にあると考えざるを得ません。「女性の繁殖の力と神秘に対する尊敬と恐れを反映している」という註解者がいます。そのような「恐れ」を動機とする規則を、肯定的に評価することは困難です。

 男児が生まれると、8日目に割礼を施します(3節)。清めの期間を過ごさなくてもよいということは、産まれた子どもは汚れてはいない、ということになります。だから、産婦は「家に留まる」と言われますが、子どもについての規定はないわけです。神の御子イエスも、生後8日目に割礼を受ける日を迎えました(ルカ福音書2章21節)。そしてそのとき、「イエス」という名付けが行われました。

 以前学んだように、主イエスの誕生された日付に関して、聖書にその記述はありませんが、12月25日をクリスマスと定めたのは、神の導きだったと思います。クリスマスから8日目は、1月1日です。元日に「イエス」と名付けられたということは、イエスという名が付けられてから、今年2012回目の正月がやって来たと言い表していることになります。

 産婦の清めの期間が終わった後、焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物を行います。通常、雄羊一匹と鳩一羽をささげるのですが、冒頭の言葉(8節)にあるとおり、貧しくて小羊に手が届かない場合は、鳩二羽でよい、ということになっています。

 主イエスの母マリアも、定められた清めの期間が過ぎたとき、「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」に、エルサレム神殿に詣でました(ルカ福音書2章24節)。これは、ヨセフとマリアが大変貧しかったということを示しています。

 そのように貧しい二人にとって、ナザレからエルサレムに上り、献げ物をするのは、大変大きなな負担だったと思いますが、まず神の国と神の義を求めることで、必要の一切は加えて与えられるということを、二人は確かに知っていたのでしょう(マタイ福音書6章33節)。


 主よ、あなたは御子イエスをこの世にお遣わし下さり、十字架に於いてすべての罪汚れを清める贖いの供え物とされました。日々新たに恵みの主を信じ、感謝と喜びをもって御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン