「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」 レビ記11章45節


 11章から15章までには、種々の汚れの清めに関する規定が記されています。11章には、清い動物と汚れた動物、食べてよい動物と、食べられない、触れてはならない動物とが列挙されています。考えてみれば、すべての動物は、神が御心のままにお造りになったものです(創世記1章20節以下)。そこに、清い動物と汚れた動物という区別がなされるというのは、少々不思議な思いがします。

 「ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするもの」だけが、食べてもよい清い動物だというのは(2,3節)、何を根拠にこのように言われるのでしょうか。これに従えば、豚も鯨も食べられません。馬もダメですね。また、水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるもの以外はすべて汚らわしいものだ(10節)と言われるのは、なぜでしょうか。これでは、海老や蟹、タコ、イカ、貝類なども食べられません。

 勿論、ここに記されているのは科学的、医学衛生的な区別ではありません。極めて宗教的な区別です。神は、イスラエルの民が御言葉に聴き従うどうかを試しておられるのです。

 44節に、「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」と言われています。イスラエルの民は、他の民と区別され、神の民とされたのです。聖なる者でない異国の民は、何を食べてもかまわないのですが、神の民とされたならば、その規定に従いなさいということなのです。

 その意味で、冒頭の言葉(45節)は象徴的です。ここに、「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である」と言われています。主がイスラエルの神となるためには、イスラエルの民をエジプトの国から脱出させる必要があったという表現です。

 そして、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と言われているということは、イスラエルの民が奴隷として仕えていた「エジプトの国」が、汚れたものを食べ、汚れたものに触れる、汚らわしい国として言い表されていることになります。

 イスラエルはエジプトの奴隷の苦しみから解放されたのですが、それは、彼らが何をしても自由、好き勝手して過ごしてもよいというものではありません。彼らは、「聖なる者となるべく呼び出されたのです。エジプトの文化、風習に倣わないこと、神の御言葉に従うことが、「聖なる者」、神の民となることなのです。

 勿論それは、当然のことながら、イスラエルの民を規則でがんじがらめにするためではありません。イスラエルが規則のためにあるのではなく、規則がイスラエルの民のためにあるのであり、民が規則に聴き従うことによって、主にあって真の自由を得るためなのです。

 主イエスが、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章31,32節)と言われているとおりです。

 後に、使徒ペトロがヤッファの革なめし職人シモンの家にいたとき、一つの幻を見、神の声を聞きました(使徒言行録10章9節以下)。それは、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入った入れ物が天から下りて来て、それを屠って食べよと語りかけるというものです(同11~13節)。

 その声に対してペトロが、「清くないもの、汚れた者は何一つ食べたことがありません」と答えると(同14節)、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました(同15節)。

 神は、清くないもの、汚れたものを清めることが出来ます。それはまさにイスラエルのことであり、そして、私のことです。私たちは、独り子キリストの贖いにより、罪清められ、新しくされました(ローマ書4章25節、6章4節など)。そして、神の御言葉に従って生きるように、絶えず招かれています。御言葉に従って生きることこそ、聖なる者となることなのです(ヨハネ17章17節、使徒言行録20章36節参照)。

 主よ、あなたの御言葉は正しく、御業はすべて真実です。御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られました。主が仰せになると、そのようになり、主がお命じになると、そのように立ち現れます。瞬間瞬間、私たちに、「聖なる者となれ」とお命じ下さい。その通りになるからです。 アーメン