「モーセがアロンに、『「わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を表わそう」と主が言われたとおりだ』と言うと、アロンは黙した。」 レビ記10章3節


 アロンの子ナダブとアビフが、規定に違反した炭火で香をたいたので(1節)、主の御前から火が出て二人を焼き殺してしまいました(2節)。「規定に反した炭火」の詳細は不明ですが、「香炉を取って炭火を入れ」ということから、別の場所から持ち込んだ炭火だったのかも知れません。

 そして、「その上に香をたいて」というのですから、香壇ではなく、香炉の上で香を焚いたということで、これは確かに規定違反です(出エジプト記30章1節以下参照)。もしかすると、その香炉を聖所外に持ち出して、自分の楽しみのためにも用いたのかも知れません(同37,38節参照)。

 七日間の任職式を終え、モーセが命じたとおりに務めを果たしていたアロンの子らが、なぜそのような振る舞いに及び、神の裁きを受けるような羽目に陥らなければならなかったのでしょうか。理由は思い当たりません。

 ただ、9節に、「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである」と記されているところを見ると、二人が酒に酔って務めに就き、規定に反する不適切な振る舞いをしてしまって、それで神の裁きを受けたのではないかと思われます。

 そもそも飲酒を禁ずる律法は存在しませんが、酒に酔って、規定に違反する振る舞いに及び、それで、二人が神に撃たれることになってしまいました。そこで、幕屋の務めに入る前の飲酒だけは、ここに禁じられたわけです。
 
 8節に、「主はアロンに仰せになった」とあり、モーセを介さずに神がアロンに直接語りかけておられます。こうしたケースは極めて稀です。それほどに、この違反が重大な問題だということでしょう。そして、その責任の一端が大祭司であり、また二人の親であるアロンにあるということでしょう。

 ここ数年、飲酒運転による痛ましい交通死亡事故が続発しています。罰則が強化され、社会的な制裁も受けることになりましたが、しかし、悲しむべきことに飲酒運転は殆ど減っていません。取り締まる側の警察官にも、飲酒で検挙される人が出る始末です。我々人間の弱さ、愚かさの象徴ともいうべき出来事です。

 ところで、冒頭の言葉(3節)で、モーセがアロンに、「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう」」と主が言われたとおりだった」と言い、また6節では、「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、さらに共同体全体に神の怒りが及ぶであろう」と言われています。

 「髪をほどいたり、衣服を裂いたり」というのは、悲しみを表わす表現です。二人の子らは、神に背いたため、その裁きを受けて撃ち殺され、それで、神が聖なることを示されたのだから、肉親の死を悼み、悲しんでいることを示す行為として、髪をほどいたり、衣服を裂くような真似をするなと言われているのです。

 しかしながら、どんな理由であっても、肉親の死を悼み、悲しむことを禁ずるというのは尋常なことではないでしょう。罪を犯して裁かれたとはいえ、子は子です。悼むな、悲しむなと命じられたからといって、なかなか「ハイ、そうですか」とそれを受け入れることが出来るものではありません。ところが、冒頭の言葉(3節)には、「アロンは黙した」と記されています。

 故榎本保郎先生の「旧約聖書一日一章」に、「信仰とは神の御前にもだすことである」と言われています。そして、「二人の息子を失ったとき、張り裂けんばかりの悲しみにおおわれたことであろう。文句も言いたかったであろう。言いわけもしたかったであろう。そんな神から逃げ出したいとも思ったことであろう。しかし、彼は黙していたのである」と説いておられます。

 つまり、アロンはその悲しみ、苦しみの中、主の御前に黙することで、主が聖であることを表わし、おのが信仰を示しているわけです。

 詩編62編1,2節に、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」と言われています。神が自分の悲しみ、苦しみをご存知だという信頼に生きていればこその言葉です。確かに、神は子を失う悲しみ、苦しみをご存知です。独り子を私たちの罪の贖いのため、十字架に犠牲とされるからです。そのお方に、私たちの救いはあるのです。

 主よ、大切な務めを自分の弱さ、愚かさで台無しにしてしまうような私です。あなたの憐れみなしに生きることは出来ません。命ある限り、あなたを讃え、手を高く上げ、御名によって祈ります。 アーメン