「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全体は喜びの声を上げ、ひれ伏した。」 レビ記9章24節


 9章には、「アロンによる献げ物の初執行」の様子が記されています。

 七日間の任職の儀式が終わった後、八日目に、モーセはアロンにとその子ら、及びイスラエルの長老たちを招集しました(1節)。そして、アロンには、「無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい」と命じます(2節)。

 また、イスラエルの民には、「雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい」(3,4節)と告げました。

 祭司となったアロンの最初の務めは、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を、自分たちのために献げることでした(8,12節参照)。それから、イスラエルの民が携えて来る献げ物を主の御前に献げるのです(15節以下参照)。

 アロンは、モーセに命じられたとおりにします(10,21節)。献げ物をささげる儀式の初めと終わりに、そのように記すことを通して、アロンがいかに徹底して命令に従ったかということを示しており、そこに、アロンが真心尽くして主に仕えている様子を窺うことが出来ます。

 献げ物をささげ終えたアロンは、手を上げて民を祝福した後、祭壇を降ります(22節)。そして、モーセと共に臨在の幕屋に入ります(23節)。それは、主の御前にパンを供え、香壇で香をたき、祈りをささげるためでしょう(同30章6節以下、40章22節以下)。

 それからもう一度出て来て民を祝福すると、主の栄光が民に現れました(23節)。「主の栄光」(23節)とは、出エジプト記24章16,17節、40章34節以下の記事から、雲の中で輝く火、あるいは光と考えられます。それは、主なる神がそこに御臨在下さっていることを、明らかに示すものです。

 そして、冒頭の言葉(24節)のとおり、主の御前から炎が出て、祭壇の上の献げ物を焼き尽くしてしまいました(24節)。それは、神がその献げ物を受け入れて下さったということです。それは、そのとき初めて献げ物に火がつけられたということではありません。アロンが祭壇で献げ物を燃やし始めたのですが、焼き尽くすのには時間がかかります。その献げ物が主の火によって焼き尽くされたのです。

 確かに民は、神の栄光を見ました。そして、神が彼らの献げ物を喜び受け入れて下さったことを知り、喜びの声を上げて主の御前にひれ伏し、礼拝します(24節)。神が献げ物を受け入れて下さったということは、献げ物にこめられた民の心、思いを受け入れて下さったということであり、これから民と神との真の交わりが開かれていくのです。

 ここで、「喜びの声を上げて」(ラーナン)は、「叫び声を上げて」という言葉で、必ずしもそれは、喜びを意味するものではありません。確かに、献げ物が受け入れられたのは、嬉しいことでしょう。喜びの叫びといって良いものだと思われます。

 しかし、すべてを焼き尽くす火は、神の裁きを連想させます。主の栄光を見たことも、民を恐れさせたことでしょう(出エジプト記20章18節以下)。ですから、喜びの感情と共に、畏怖の念がイスラエルの民の心を支配していたということになるのではないでしょうか。

 これは、一晩中漁をして一匹も取れなかったのに(ルカ福音書5章5節)、主イエスの御言葉に従うと二艘の船が沈みそうになるほど大量の魚が漁れたとき(同6節)、ペトロが主イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(同8節)と言った心境に似ていると思います。聖なる神の圧倒的な御力の前に、自分の罪を自覚せざるを得なかったのです。

 しかしながら、神は民を裁くために、ご自身の栄光を現わされたのではありません。罪を贖う献げ物が献げられたからです。そしてそれは、主のご命令でした(6節参照)。即ち、主ご自身が交わりの道を開かれたのです。ひれ伏したペトロに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたように(ルカ5章10節)、イスラエルは、神の民としての使命に生きるのです。

 主よ、あなたは御子イエスを贖いの供え物とされて、私たちの罪を赦し、憚ることなく御前に近づくことを許されました。ペトロがすべてを捨てて主イエスに従ったように、私たちも自分の十字架を担って日々その御足跡に踏み従うことが出来ますように。御心を行うために、すべてのよいものが備えて下さいますように。 アーメン