「今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主のご命令によるのである。」 レビ記8章34節


 8章には、「祭司の聖別の任職式」について、記されています。これは、出エジプト記28,29章で主が命じておられたことを、ここで実行し、あらためて、祭司の規定として書き記しているということです。

 まず、アロンを水で清め(6節)、祭司の衣服を着せ(7節以下)、聖別の油で幕屋、祭壇、祭具、洗盤を清め(10,11節)、その油をアロンの頭に注いで聖別します(12節)。続いて、アロンの子らにも祭服を着せます(13節)。

 それから、アロンとその子らのための贖罪の献げ物として雄牛一頭をささげ(14節以下)、次に、焼き尽くす献げ物として雄羊をささげます(18節以下)。更に、任職の献げ物として一匹の雄羊をささげます(22節以下)。そして、聖別の油と祭壇の血を取って、アロンと子ら、彼らの祭服に振りまきます(30節)。この儀式を7日間にわたり、毎日行います(33節以下)。

 この一連の儀式を見て示されることは、神がアロンとその子らを選び、代々この一族から祭司が立てられるようにされたのは、彼らが特別な存在、即ち祭司として選ばれるだけの価値ある立派な人々だったからというのではないということです。そうではなく、彼らも神の前に出るためには、ここまで徹底的に清められなければならない罪人、私たちと同様に汚れた存在だったわけです。

 そもそも、アロンの父祖レビは、その父ヤコブから、「シメオントレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。・・彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」(創世記49章5節以下)と、呪われた存在です。

 そうすると、彼らが選ばれたのは、神がイスラエルだけを特別に愛し、アロンとその一族に特権的な使命を与えるためではなく、どんな人にも神の恵みが与えられ、どんな人も神の御業のために召され、用いられることを示すためということになります。

 そうして、この恵みが私たちにも開かれたのです。であれば、私たちがその任に就くためにも、このような清めの儀式が必要ということでしょう。神の御子キリストが十字架で私たちの罪のための贖いの供え物となられたということが、私たちの罪の重大さを示すと共に、神が私たちを召され、私たちを御業のために用いて下さるという御心が示されています。私たちは、主イエスを信じ、その御言葉に従うことで、神の御心に応答するのです。

 ところで、任職の儀式に7日間を要するというのは、神が7日間で天地を創造されたように、神が罪人をご自分の祭司として「創造」するためということではないでしょうか。また、完全数の「7」で、彼らが日々徹底的に神の御言葉に聴き従うことが求められているのです。

 冒頭の言葉(34節)に、「今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主のご命令によるのである」と記されています。あらためてこのように言われなくても、この儀式が罪を贖うため、そして祭司として立てられるためであることは、繰り返し述べられています。

 この箇所がなくても、即ち、33節と35節を直接つないでも、意味は通じます。敢えてこの文章が書き加えられたとすると、この言葉の強調点は、「今日執り行った」というところにあるようです。

 即ち、私たちが神に従うのは、いつも、「今日」であるということです。そして、「今日」従うかどうかが、私たちの行き方を決め、一生を決め、はたまた永遠に影響を与えるということです。これはパウロが、「今や、恵みのとき、今こそ、救いの日」(第二コリント書6章2節)で語られた「今」と同じ意味でしょう。私たちは、「今」、主に従うように召されており、信じ従う私たちに「今」恵み、救いが与えられるのです。

 「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御子の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑なにしてはならない」(詩編95編7,8節、ヘブライ書7,8節)。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ福音書1章45節)。「わたしは主のはしため(しもべ)です。お言葉どおり、この身になりますように」(同1章38節)。


 主よ、あなたを信じます。御言葉を信じます。あなたがお建てになった教会を信じます。キリストがその頭であり、教会はキリストの体だからです。私もその体の一部に加えられました。この体で神の栄光を表わします。ご用のために用いて下さい。 アーメン