「アロンとその子らに告げてこう言いなさい。贖罪の献げ物についての指示は次のとおりである。贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る。これは神聖なものである。」 レビ記6章18節


 6章には、「各種の献げ物の施行細則」が記されています。18節以下には、贖罪の献げ物についての指示があります。それは、冒頭の言葉(18節)の通り、「贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場で主の御前に屠る。これは神聖なものである」と規定され、続いて、「この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる」と命じられています(19節)。

 「神聖なもの」とは、それが神のものであるということです(18節)。そして、民のために執り成しを行う祭司は、神の代理として献げ物を受け取り、血と脂肪のすべてを神に献げた後、肉は祭司のものとなり、臨在の幕屋の庭で食べます(19節)。

 贖罪の献げ物をささげるのは、犯した罪を神に赦していただくためです。4章20節に、「祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される」と記されていました。その献げ物は、決して安価なものではありません。そのことで、犯された罪がいかに重大な違反と考られているのかということが、はっきり示されます。

 ですから、この御言葉を実行するということは、自分の犯した罪を、主なる神に対する重大な違反と認めるということであり、神の御前で公に謝罪の意思を表わすことになります。それにより、神が彼らの罪を赦して下さるというわけです。

 幼稚園の子どもたちをみていて、つくづく羨ましいなあと思わされるのは、今どんなに激しくケンカしていても、「ごめんね」、「いいよ」というと、後はまたうち解けて遊べることです。ケンカの直後は、絶対赦さないとかって言ってても、そして、本当に口を利かないということもありますが、いつの間にか、仲良く遊んでいます。ケンカしたことも、もうすっかり忘れてしまっているようです。ここが、子どもの素晴らしいところです。

 大人なら、なかなかこうは行きません。それこそ、二度と口を利かない絶交状態になってしまうことだってあるでしょう。英語の単語で一番難しいのは、「forgive(赦す)」という言葉だと聞いたことがあります。確かに日本語でも、「ゆるす」というのはたった三つの平仮名ですが、赦せない相手にそれを言うのは、とても難しいものになってしまいます。

 ところで、「贖罪の献げ物をささげるように」という指示は、主がモーセに告げられたものです。贖罪の献げ物をささげると、その人の罪が赦されるでしょう。罪を赦されるのは、神です。そして、贖罪の献げ物をせよと命じておられるのも、神です。つまり、神はこのような規定をイスラエルの民に与えることで、人の罪を赦す意志のあることを表明しておられるわけです。その意味では、既にその人の罪を赦しておられるといってもよいでしょう。

 マルコ2章7節に、律法学者の言葉で、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と記されています。人の背きの罪をお赦しになれるのは、確かに神おひとりだけです。

 ただ、4章に示されていた贖罪の献げ物は、「誤って主の戒めに違反し、禁じられていることをして」(同2節)しまう罪の贖いであって、たとえば、故意に、殺意をもって人をあやめる罪などは、その対象から外れています。それをすることは、「殺すなかれ」(出エジプト記20章13節)という十戒に背くという意味で、神を冒涜する罪ともなります。そのような罪を犯した者に対して、それを贖う方法はないということだったのです。

 ところが、神の憐れみは、この規定を超えています。想定外の罪をさえ赦されます。ご自身の独り子が十字架で殺されました。法的には、無実の罪でしょう。主イエスを裁く法廷は、その認識を持っていました(マルコ福音書14章55節以下、15章10節)。

 しかしながら、主イエスはその裁きを甘んじて受けた上、十字架で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と執り成されました。自分を殺そうとしている者たちを赦し、その上で、これは過ちだ、自分が何をしようとしているのか、知らずにしていることなんだ、だから、ご自身を贖罪の献げ物とするので、それをもって彼らの過失の罪を赦して下さい、と嘆願しておられるのです。

 このような神の計り知れない憐れみによって、私たちも救いに導かれ、神の子とされる恵みに与りました。主に心から感謝と賛美をおささげします。

 主よ、あなたの深い愛と憐れみに心から感謝し、御名をほめたたえます。独り子が贖いの献げ物としてご自身を犠牲にされなければならないほど、私の背きの罪は重いものでした。その私のために御子が犠牲を払って下さり、その命をもって生かされたのですから、御用のために用いて下さい。宣教の御業が前進しますように。 アーメン