「貧しくて二羽の山鳩にも二羽の家鳩にも手が届かない場合は、犯した罪のために献げ物として小麦粉十分の一エファを携えて行き、贖罪の献げ物とする。」 レビ記5章11節


 「贖罪の献げ物をささげるべき罪として、4章27節以下に、「一般の人のだれかが誤って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたとき」とありました。

 続いて、5章1節に、「見たり、聞いたりした事実を証言し得るのに、呪いの声を聞きながらも、なおそれを告げずにいる者」(1節)、「悪いことについてであれ、善いことについてであれ、どのような事柄についてであっても、軽はずみな誓いが立てられるようなことに関して、軽はずみな誓いを立てたならば、それを知るようになったとき、責めを負う」(4節)、と規定されます。

 また、「汚れた野獣、家畜、は虫類の死骸など汚れたものに気づかずに触れるならば」(2節)、「いかなる種類の汚れであれ、人体から生じる汚れに気づかずに触れるならば、それを知るようになったとき責めを負う」(3節)といわれます。

 上記のとおり、隣人のために証言することを拒否すること(1節)や、軽はずみな誓いを立てること(4節)と、それと気づかずに汚れたものに触れること(2,3節)とでは、罪の重さが違うのではとも思います。1節は、隣人に対する悪意に基づく故意とも言える罪であり、2,3節は、汚れに気づかずに触れたという、不可抗力的な過失、そして、4節は、善悪をわきまえずに軽はずみに誓いを立てたという罪ですが、全く同等に取り扱われています。

 誰に対してなされたものか、故意か不注意か、いずれも問題にされていないということは、隣人に対し、また神に対して、常に真実な態度、姿勢が求められ、不注意でいることは赦されないということです。これはしかし、気をつけていても過ち、失敗を犯す私たちには、大変厳しいものではないでしょうか。

 この罪の代償として、雌羊または雌山羊を献げよと言われます(6節)。この代償の大きさに、人の犯すどんな罪であれ過ちであれ、いかに重大な問題と受け止めておられるかが示されています。

 しかしながら、家庭の経済的な事情で羊や山羊をささげることが出来ない人は、二羽の山鳩とまたは二羽の家鳩を献げよと言われ(7節)、それも出来ない人は、冒頭の言葉(11節)のとおり、小麦粉十分の一エファを携えて来なさいと言われています。小麦粉十分の一エファは約2.3リットルで、これは一人が一日に食べる平均的な量だということです。貧しい者にとっては、それも大変ということはあるかも知れません。

 いずれにしても、ここに示されているのは、罪を贖う献げ物なしに、罪が赦されることはあり得ないということです。もしも罪が赦されず、神の裁きを受けなければならないとなると、「罪が支払う報酬は死」(ローマ書6章23節)ということで、自分の命で償わなければならない、ということになります。

 第一ヨハネ書1章9節に、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」とあります。「自分の罪を公に言い表すなら」、罪赦され、清められるのです。

 そして、同7節に、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とありました。つまり、神の御子イエスが贖罪の献げ物となって下さったことが分かります。人の罪の代価を払うために、神が罪も汚れもない独り子を十字架に犠牲とされたわけです。

 よって、「責めを負うときには、彼はその罪を犯したことを告白し、犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる」(5,6節)という規定に基づいて、自分の罪を主の御前に告白すると、御子キリストが贖罪の献げ物となって下さったので、それによって、私たちの罪が赦されるのです。

 これは、考えることも出来ないような恵みではないでしょうか。神はご自分に対する罪過を自ら引き受け、その代償として独り子の命を犠牲とされたのです。それほどに神が私たちを大切に思っていて下さるということです。わが子よりも私たちを大切にするという心情は、私たちの理解を超えています。あり得ないことです。ただ、私たちの罪が赦され、神との和解が実現するためには、それしかなかったのです。

 主が私たちのために血を流されたことを覚え、絶えず感謝をもって御前に進み、右にも左にもそれることがないように、真直ぐ主の御足跡に従って歩みましょう。

 主よ、屠られた小羊こそ、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるに相応しい方です。玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。 アーメン