「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。」 レビ記4章3節


 四番目は、「贖罪の献げ物」です。2節に、「これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である」と記されており、故意に犯した罪と区別されていることに注意する必要があります。

 故意に罪を犯した者については、「主を冒涜する者であり、その人は民の中から断たれる。彼は主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う」(民数記15章30,31節)と言われており、その罪を赦し贖うための規定は、旧約聖書には存在しません。

 「過って」(シェガーガー)犯された罪とは、道から迷い出た羊の不注意による失敗といった意味です。その愚かさの故にたびたび失敗し、迷い出てしまいます。今度こそはと思いながら、指導者に迷惑をかけるということがあります。自分でもとの道に戻れないからです。

 パウロがそのことについて、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ書7章19,20節)と語っています。

 とはいえ、悪いのは自分の中に住んでいる罪で、自分自身の責任ではないと言って、裁きを免れることは、勿論出来ません。その罪を住まわせているのが、私の弱さ、愚かさなのです。私たちは神を畏れなければなりません。神を畏れることこそ、知恵の始まりだからです(箴言1章7節)。

 最初に、冒頭の言葉(3節)の通り、「油注がれた祭司」の罪が取り上げられます。「油注がれた」ということは、大祭司として聖別されたということです(出エジプト記29章7節)。大祭司には、その権威とともに、大きな責任が課せられています。そのような人物の不注意の影響は、彼一人に止まりません。職務を適切に果たさなければ、その責めが民にも及んでしまいます(3節)。

 「(自分の犯した)罪」は、ヘブライ語で「ハッタース」と言います。これは、「的を外す、道を外れる」という意味です。民を正しく導くべき祭司が道を外れて迷い出れば、当然、後に続く民も、道を踏み外すことになります。その影響は甚大です。彼は、その過失の故に、「無傷の若い雄牛を主にささげ」なければなりません。

 注解書に、「それは多くの農民にとって、一年分の収入に相当する代償であった」と記されていました。責任ある祭司の過失、不注意は、それほどに重いものであるということです。

 使徒ペトロが、「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげなさい」(第一ペトロ書2章5節)と記しています。かつて、アロンの子孫だけが祭司として立てられていましたが、今や血筋によらず、能力によらず、ただ主イエスを信じる信仰によって、すべての信徒が聖なる祭司とされるのです。

 そして、私たちが献げるいけにえは、屠られた動物ではありません。神がご自分の独り子を贖いの供え物とされたので、私たちは、贖いの供え物を神に献げる必要がなくなったのです(ヘブライ書10章10,12,18節)。

 ペトロの言う、「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは、私たち自身のことであり(ローマ書12章1節)、また、私たちの「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」です(詩編51編19節)。

 主は私たちを、御子の命という代価によって贖い出して下さいました(第一コリント書6章20節)。ゆえに私たちは、主イエスを通して恵みをお与え下さる神に賛美のいけにえ、御名を讃える唇の実を献げ(ヘブライ書13章15節)、また、隣人に対する善い行いと施しを、忘れず行います(同16節)。

 私たちが隣人に施すことの出来るもっとも善いものとは、主イエスを信じる信仰であり、それを証しする神の国の福音でしょう。私たちが毎日聖書を読み、祈ること、教会の諸集会を忠実に守ること、感謝と賛美の日々を送ることは、見える形でなされる証しです。

 人に躓きを与えるような愚かで弱い私たちの生活で、神の愛と恵みを証しすることが出来れば、どんなに幸いなことでしょうか。主は私たちの体、日々の生活を通して、その栄光を現わして下さいます(第一コリント書6章20節)。その恵みに与ることが出来るよう、共に祈りましょう。

 主よ、あなたは私たちを選び、聖なる祭司とされました。自分の知恵や力で、聖なる祭司としての務めを全うすることなど出来ません。必要な知恵や力、賜物を授けて下さい。御名の栄光のために、私たちを用いて下さい。宣教の働きが前進し、豊かな実を結ぶことが出来ますように。 アーメン