「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」 レビ記2章13節


 2章では、「穀物の献げ物」について規定されています。1節によれば、「上等の小麦粉を献げ物としなさい」というのですから、小麦や大麦を収穫してそのままというのではなく、粉に挽いてから献げるわけです。「それにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ」ます。ここに献げる量などは記されておりませんが、穀物の収穫に対する感謝を込めて献げられることを考えると、あまり少量ではなかったでしょう。

 そして、小麦粉にオリーブ油を注いだのは、これでパンや菓子を作るためでしょう。また、小麦粉の上に載せられた乳香は、決して安価なものではないため、献げ物をする者(奉献者)にとって、穀物を献げる以上に犠牲を伴うものであったと思います。

 上等の小麦粉をささげるだけでなく、それをかまどや鉄板で焼いたもの、鍋で蒸したものをささげることもあります(4,5,7節)。そのときに、「酵母を使わずに」(4,5節)焼きます。11節にも、「主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない」と記されています。

 酵母を入れないということについては、エジプト脱出の際に、急いで出立しなければならず、道中の食料を用意する暇もなかったため、酵母を入れずにパン菓子を焼いたことを記念して(出エジプト記12章39節)、過越の祭りに続く除酵祭を行う(同13章3節以下)ということを思わせます。

 また、酵母による発酵が腐れと見なされていたようです。そしてそれは、私たちの生活の中にいつの間にか忍び込んで来る罪の力を示しているとも考えられます。これは主イエスが、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)と言われたことにも通じています。

 9節に「蜜の類」という言葉もあります。これは、蜂蜜ではなく、果汁のことではないかとする解釈もあるようですが、いずれにせよ、それは発酵するものですから、酵母と並べて言及されているわけです。

 ただ、12節には、「それらのものは、初物の献げ物として主にささげてもよい」と記されています。これは、神が罪に充ちた人間の献げ物でも、喜んで受け入れて下さる証拠と考えられます。

 2,9節の「しるし」(アズカーラー)は、語源がヘブライ語の「覚える、思い起こす」(ザーカル)という言葉ですから、神の救いの御業を絶えず思い起こして感謝のしるしとして献げると解することが出来ます。酵母を使わずにパン菓子を焼いて神に献げるとき、民はいつも、エジプトから救い出して下さった神の愛と恵みを思い出すわけです。それはまた、神が奉献者を覚えて下さるための献げ物という意味でもあると思われます。

 冒頭の言葉(13節)で、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」と言われています。塩は味の変わらないものですから、「あなたの神との契約の塩」という言い方も、神との間の変わらない契約関係を示すものと言ってよいでしょう。

 また、塩は調味料としてだけでなく、防腐の役割も果たします。預言者エリシャが、水質の悪い水源に塩を投げ込んで、「この水を清めた」と言ったのは、塩の清める働きを言っているのです(列王記下2章19節以下)。

 主イエスが、「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われたのは、私たちがその役割を果たすことを主が期待しておられるということです。けれどもそれは、私たちに塩としての清めの力があるということではありません。「あなたがたは地の塩である」と言われる主イエスご自身がその力を有しておられ、主に信頼し、御言葉に従う者を通して、その力を発揮させようとしておられるのです。

 その意味で、塩は、主なる神に対する信頼、信仰の心ということも出来ます。感謝の献げ物をするときに、主を信頼する信仰の心を添えるということです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブライ書11章6節)。絶えず新しい心で、感謝と喜びをもって主に従いましょう。

 主よ、冷たくも熱くもない、生温い信仰を悔い改めます。いつもあなたを私たちの心の王座に迎えます。私の内に入り、絶えず共に食する恵みに与らせて下さい。信仰をもってあなたに賜物を献げ、時間を献げ、そして奉仕を献げささげます。御業のために用いて下さり、地の塩としての使命を全うさせて下さい。 アーメン