「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上のものを携えて来ます。」 出エジプト記36章5節


 主なる神は、ユダ族のフルの子ベツァルエルを呼び出して、神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、あらゆる細工に意匠を凝らし、すべての細かい工芸に従事させ、さらに、人を教える力をお与えになりました(35章30節以下)。また、ダン族のアヒサマクの子オホリアブに、知恵の心を満たし、すべての工芸に従事させ、彫刻し、衣装を考案する者、あらゆる種類の工芸に従事する者とされました(同34節以下)。

 ベツァルエルとオホリアブ、この二人の指示で、「聖所」、即ち臨在の幕屋作りが始まります。モーセはさらに、主から心に知恵を授けられたすべての人を召集します(2節)。彼らも、「心動かされた者」と言われていますから、招集がかかったとき、いやいやではなく、神の召しだからと、進んでその呼び出しに応えたのです。

 モーセは、イスラエルの民が幕屋建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物を、幕屋作りに従事する人々に手渡しました(3節)。いよいよ、仕事の始まりです。そこで、問題が起こりました。仕事に携わっていた人々が仕事場を離れて(4節)、モーセに訴えます。しかしながら、それは、不平不満ではありませんでした。むしろ、嬉しい悲鳴です。

 というのは、イスラエルの民が次から次へと献納物を携えて来るので、その対応に追われますし、何より、冒頭の言葉(5節)にあるとおり、既に必要以上の量が集まって来ているのです(5,7節)。それを聞いて、モーセは早速、「聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」と、民に伝えました(6節)。

 思えば、この幕屋作りは、主なる神がイスラエルの民の中に住まわれるというご自身の御心によって始められたことです(25章8節)。ことの実現に向けて、ある人には知恵を、ある人には技術を、またある人には労働力、またある人は資材といったかたちで、必要なものがそれぞれに分け与えられていたということです。

 19節に、「雄羊の皮で天幕の覆いを作り、更にその上をじゅごんの皮の覆いでおおった」とあります。牧羊を生業としていたヤコブの子ら(創世記47章3,4節)=イスラエルの民が、羊の皮を手に入れるのは、それほど困難なことではなかったかと思うのですが、しかし、天幕全体を覆うためのじゅごんの皮を手に入れるというのは、決して容易いことではなかったでしょう。

 430年間エジプトで奴隷生活をし、そして今、シナイの荒れ野を旅しているイスラエルの民が、いつどのようにして、それらのものを手に入れたのでしょうか。エジプト脱出の折にエジプト人から貰い受けたのでしょうか(12章35,36節)。そうかも知れません。詳細は全く不明ですが、その必要のために神がお与えになった賜物であることに違いはありません。

 勿論、天幕作りのために必要なすべてのものを、一人で持っている人はいません。一人の力でこの働きを完成することも出来ません。皆が力を合わせ、思いを一つにしなければ出来ないことです。それは、民が主の方を向いているということです。主の御言葉に聴き従うということです。主に心動かされて、民が自ら進んで行うときに、必要が満たされて更に余るということになるのです。ここに、主の業、主の導きを見ることが出来ます。

 あるいは、私たちがささげることが出来るのは、五つのパンと二匹の魚かもしれません。それでは、男だけでも五千人いるという大群衆の前に、焼け石に水といいますか、子どもだましといいますか、何の役にも立たたないだろうと思うかも知れません(ヨハネ福音書6章9,10節)。

 けれども、主イエスはその献げ物を必要としておられたのです。主イエスはそれをとって神に感謝の祈りをささげ、人々に分け与えられました(同11節)。すると、すべての人々の腹が満たされ(同12節)、残ったパン屑は、12の籠を満たしたのです(同13節)。

 主に心を向けましょう。御言葉を聴きましょう。御霊の導きを祈り求めましょう。主にあって心動かされ、進んで御旨を行うことの出来る者としていただきましょう。

 主よ、イスラエルの民の内にお住まい下さるために、必要の一切が備えられたことを知りました。そして、民はそれを喜んで、進んで献げました。御旨に従って行ったとき、すべてが満たされました。私たちの内におられる聖霊を通して、私たちにも、従う喜び、献げる喜び、そして、御業に与る恵みを味わわせて下さい。 アーメン