「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」 出エジプト記19章5節


 1節に、イスラエルの民が「エジプトを出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」とあります。ここで、「三月目のその日」は、原文を直訳すると、「第三の新月」という言葉です。1月14日の夕方、即ち15日の始まりに過ぎ越しの食事を摂り、すぐに出立していますので(12章、レビ記23章5,6節など参照)、三度目の新月は、4月1日ということになります。

 彼等はレフィディム(17章1節:「平原」の意、シナイ山の北西にある平原のこと)を出発して、シナイの荒れ野に着き、山に向かって宿営しました。その山が、18節のシナイ山のことです。ただ、シナイ山の場所は諸説あります。伝統的には、シナイ半島南方にそびえる「ジェベル・ムーサ」(標高2,273m、アラビヤ語で「モーセの山」の意)であろう、と考えられて来ました。

 モーセが山を登って行くと、主なる神が彼に語りかけ(3節)、「あなたは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを」と言われました(4節)。神は、イスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放し、シナイ山の御自分のもとへ連れて来られたというのです。

 かつてモーセは「神の山ホレブ」で神と会い(3章1節以下)、兄アロンと共にイスラエルの民を救い出す務めに出発します(4章27節以下)。24章13節に「モーセは、神の山に登って行くとき」とあって、16節には「主の栄光がシナイ山の上に留まり」と言われるので、「神の山ホレブ」は「シナイ山」と同一と考えられます。

 「鷲の翼に乗せて」とよく似た表現が申命記32章11節にあり、「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」と記されています。ここでは、神を、雛を養い育てる鷲に見立てています。巣を揺り動かし、雛の上を飛び翔って、自らの翼で飛び立つように促し、上手に飛べずに墜落しそうになるときは、雛の下でその羽を広げて受け止め、翼に乗せて運ぶというのです。

 イスラエルの民は、気がついたらシナイ山の前に宿営していて、これまで何の苦労もなかったというわけではありません。むしろ、苦労の連続でしたが、どんな時にも神が彼らの避け所となり、恵みを与え、かくて無事シナイ山まで連れて来られたのです。

 その恵みを受けたのは、冒頭の言葉(5節)のとおり、イスラエルの民が主の御声に従い、その契約を守ることを通して、神の宝となるためです。ここで神は、私たちのことを「わたしの宝」と呼んで下さいます。申命記7章6節に、神がイスラエルを「宝の民」とされた経緯が記されていますが、それは、イスラエルがどの民よりも貧弱だったからと説明されています(同7節)。

 イザヤ書43章4節の、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し云々」という言葉も、似たような消息を示していると思います。即ち、自分で自分のことを「神の宝」と主張したり、価高い存在と自惚れているのではありません。神がそのように言い表して下さるのです。それは、一方的な神の恵みです。

 この宝は、いつも宝箱に納められていたわけではありません。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の家で苦しみ、呻き声を上げていました。神は民の苦しみに目を留め、その呻きを聞いて、救い出して下さったのです。

 それは、主イエスがルカ福音書15章のたとえ話を通して語られた、神の姿そのものです。神は、迷子になった一匹の羊を捜し回る羊飼いのように、なくした1枚の銀貨を捜す女のように、そして、親不孝の弟息子を待ち続け、ぼろぼろになって帰ってきたら最上のもので喜び祝う父親のように、そうするのが「当たり前ではないか」といって、無限の愛をイスラエルの民に、そして私たちに注いで下さるのです。

 神が私たちを宝と言われるのは、宝箱に陳列しておくためではありません。自分たちが他の人々とは違う、特別な存在であると誇らせるためなどではないのです。神は、祭司の王国の聖なる国民として、神と世界中の人々のために執り成し、そして、御言葉に聞き従うように語り広める使命を委ねるために選ばれました。

 冒頭の言葉で、「世界はすべてわたしのものである」と言われているのは、イスラエルの民が神の宝であるのと同様、世界のすべての民が神の宝なのであり、その御心が全世界に伝えられるために、イスラエルを選びの民とされたということなのです。

 今日、新のイスラエルとは、主イエスを信じる私たちのことです。主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と言われました。選びに相応しい実を結ぶことが出来るよう、祈り、励みましょう。

 主よ、私たちは何者なので、御心に留めて下さったのですか。私が何者なので、これを顧みられるのですか。その限りないご愛の故に、ただただ驚くばかりです。心を尽くして感謝をささげ、喜びをもってその驚くべき御業を語り伝えましょう。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン