「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」 出エジプト記18章17,18節


 モーセの舅、ミディアンの祭司エトロが、ツィポラと二人の息子を連れてレフィディムにやって来ました。4章20節で、ツィポラたちはモーセと一緒にエジプトに下っており、いつ実家に帰っていたのかは不明です。恐らく、モーセが後顧の憂いなく働けるように、ファラオとの対決の直前に実家に戻していたのでしょう。

 モーセは舅に、主がイスラエルのためにファラオとエジプトに対してなされたすべてのことを語り聞かせると(8節)、舅は喜び(9節)、主を褒め讃えています(10,11節)。その賛美の中に、「今、わたしは知った。彼らがイスラエルに向かって高慢にふるまったときにも、主はすべての神々にまさって偉大であったことを」(11節)という言葉があります。

 舅はミディアン人の祭司であり、自分の民族の神に仕えていたのですが、「今、わたしは知った」と語っているとおり、確かにモーセの仕える神について、認識を新たにしたのでしょう。かつて、エジプトのファラオが主の名を聞いたとき、彼はその心を頑なにして、モーセの言葉に従おうとはしませんでした。その意味で、エトロは、モーセの語る主なる神の証しを受け入れた、最初の外国人ということになるのかも知れません。

 ところで、7節に、「天幕に入った」と記されていますが、これは、モーセ個人のテントではなかったようです。というのは、エトロが賛美をした後、焼き尽くす献げ物と生贄をささげ、アロンとイスラエルの長老たちと一緒に神の御前で食事をしていますが、前後の文脈から、彼らが天幕を出た形跡がないからです。つまり、この天幕は、いまだ神の幕屋が建てられる前のことですが(25章参照)、神の幕屋としての役割を果たすものだったのです。

 翌日、エトロは、座について民を裁くモーセの仕事振りを見て、問題があるのに気づきました。それは、モーセの裁決を求めて、民がモーセの前に朝から晩まっで列をなしているということです(13節)。あまりにも多くの人が並んでいて、対応が追いつかないのです。

 エトロは、冒頭の言葉(17,18節)の通り、「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう」と忠告します。いかにモーセが神の選んだカリスマ指導者であっても、兵役に就く男子だけで60万人以上、女子どもに老人を加えると200万人にも及ぶイスラエルの民の身の上相談を、一人で裁けるはずがないからです。

 これは、さらにいくつかの問題を生み出します。一つは、モーセが一日中問題の処理に追われ、その結果、疲れ果ててしまうということです。二つ目は、順番を待っている民が無為な時間を過ごさなければならず、それが新たな不満の種になることです。

 さらに、少なくとも「イスラエルの長老」(12節)と呼ばれる部族ごとの指導者がいたにも拘らず、彼らが力を発揮する場所が与えられていないことです。これは、カリスマ的指導者が陥りやすい落とし穴です。私が一番上手だ、自分でやったほうが早いなどと言って自分一人で仕事を抱え込み、仕事を譲らない結果、全く効率の悪い組織になってしまうのです。

 「あなたのやり方は良くない」という言葉は、創世記2章18節の、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という言葉を思い出させます。つまり、モーセが独りでいて助けるものがないのは、神の御心に背くものだということです。神は、「助ける者を造ろう」と仰っているからです。

 エトロは、「民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい」(21節)と助言します。確かに、モーセでなければ出来ない課題もあったことでしょう。しかし、多くの問題は、こうして選ばれた有能な指導者たちによって迅速に処理されるようになり、民は大いに喜ぶはずです。

 モーセの負担も劇的に軽減出来るでしょう。有能な人々には、その力を存分に発揮する場が与えられます。モーセは舅エトロの言う通りにしました(24節以下)。

 主よ、私たちは、頭であられる主イエスの命をもって贖われ、神の民に招き入れられた者です。主の御声に聴き従い、その使命を果たすことが出来ますように。そのときに、一人一人ばらばらというのではなくて、互いに「助ける者」として、持てる力を出し合い、キリストの体なる教会をしっかりと築き上げることが出来ますように。 アーメン