「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」 出エジプト記16章4節


 「エジプトを出た年の第二の月の15日」(1節)、それは、エジプトを脱出して30日後のことです(12章参照)。イスラエルの民は、シンの荒れ野に入ると、モーセとアロンに対して、「あなたたちは我々をこの荒野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と不平を述べ立てます(2,3節)。

 「シンの荒れ野」とは、月の神シンに由来する名前ですが、英語で「the wilderness of Sin」と書き、SINとは英語で「罪」という意味ですから、英語的には、「罪の荒野」ということになってしまいます。そして、イスラエルの民は、そこで、彼らの罪の姿を露呈してしまいました。

 民がモーセらに不平を述べたのは、シナイの荒れ野を一ヶ月間旅を続けて来て、エジプトから持って出た食糧が底をつき、明日から何を食べればよいのか分からないという事態になったからでしょう。マラの水の問題に続いて、これも大問題です。不平を言うのは、至極当然とも考えられます。

 民はモーセたちに対して、エジプトを脱出させてくれたことは感謝に価するけれども、この荒れ野でどのようにして飲み水や食べ物を確保するつもりなのか、その計画を示せ。まさか、計画なしに、ことに及んだわけではあるまいな。もしそんなことだったら、たとい、苦役が待っているとしても、エジプトでパンを食べて生きる方が、荒れ野で自由の身で飢え死にするより、まだましだ。そんな思いで訴えているわけです。

 けれども、彼らはマラの苦い水を甘い水に変えて頂いたという事実(15章25節)、力を与えられて御言葉に聞き従って歩んだとき、マラから12の泉があり、70本のナツメヤシが茂るエリムに到着したという事実(同26,27節)を忘れています。確かに、思い出で腹を満たすことは出来ません。しかし、ここで思い出すべきなのは、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(同2節)と自ら歌った主への信仰です。

 主は、恩を忘れ、不信仰になっている民に対して、冒頭の言葉(4節)の通り、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める」と告げられました。その言葉のとおり、朝、宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると、霜のようなものが薄く残ります(13,14節)。それが、主が荒れ野を旅する民のために食物として与えられたパンでした(15節)。

 これは不思議なパンです。毎朝、必要な分のマナを集めることが出来ました(18節)。たくさん集めて翌日の分としてとっておくと、虫がついて臭くなります(20節)。また、日が高くなると、溶けてしまいます(21節)。ところが、六日目だけはいつもの2倍の量を集めることが出来(22節)、翌日まで残しておいても臭くならず、虫もつきません(24節)。それは、七日目が休息の日、主の聖なる安息日だからという説明がなされています(23節)。

 主なる神が安息日を定められるのは、シナイ山に到着し(19章)、そこで十戒が授けられたときのことです(20章1節以下、8~11節)。ということは、安息日の規定が与えられる前に、実地でその守り方が示されているというところでしょうか。

 ところで、冒頭の言葉で主は、「わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」と言われていました。そのことで、「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ」と命じられ(16節)、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」(19節)と言われますが、聞かずに翌朝まで残しておく者が出ます(20節)。

 また、七日目に、「今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう」と言われますが(25節)、七日目に集めに出る者がいます(27節)。見事に、主を信頼し、その御言葉に忠実に従うという試験に失敗しています。

 主イエスが悪魔の試みに遭われたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を引いて、悪魔の誘惑を退けられました。これは、肉体のためにはパン、霊的な必要は神の言葉ということではありません。もしそうであるなら、肉体のためのパンを石ころから造ることが、正当化されてしまいます。

 主イエスが仰っているのは、神の口から出る一つ一つの言葉が、私たちにパンを与え、水を与え、必要ならば、肉さえも与えてくれるということでしょう。即ち、主なる神はその御言葉をもって、私たちのすべての必要を満たして下さるのです。主を信じ、しっかりとその御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、弱い私たちを顧み、絶えず憐れみと慈しみをもって導いて下さり、感謝致します。主の憐れみなくして、信仰の歩みを全うすることは不可能です。日々御言葉に耳を傾け、その恵みの導きに従うことがで来ますように。御霊に満たされ、力を受けて、神の愛と恵みの証し人とならせて下さい。 アーメン