「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」 出エジプト記15章25節


 葦の海を通ってエジプトの軍勢から救われたイスラエルの民は、心から主を賛美します(1節以下)。2節に、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」と謳われていますが、これは、詩編118編14節、イザヤ書12章2節でも、同じ言葉で賛美されています。

 まず、「主はわたしの力」とは、主が私と共におられて力となって下さるということであり、主が味方して下さったということを言い表しています(ローマ書8章31節)。それは、聖霊に満たされ、力を受けることと言ってもよいでしょう(使徒言行録1章8節)。

 次に、「主はわたしの歌」とは、主が歌を授けて下さったということです。主は、「イスラエルの賛美を受ける方」(詩編22編4節)であり、口も利けないほどに縛られていた者に、主を賛美する歌を歌えるようにして下さったということでしょう。使徒言行録3章には、生まれつき歩くことの出来なかった者が踊りながら神を賛美するようになったという記事があります。

 そして、「主はわたしの救い」とは、彼らが主によってエジプトの苦しみから救われたことを言います。そして、上記のとおり、詩編やイザヤ書にも同じ歌が歌われるということは、主なる神がイスラエルの民を様々な苦しみから解放し、救いを与えられたということ、それにより、主はどんな時にも救いをお与え下さるお方であるという信仰表明の言葉になっています。それゆえに、主は民に力を授け、歌を与えるお方であるとも言われるわけです。

 過越という災いによってエジプトの労役から解放され(12章)、葦の海の奇跡によってエジプト軍から救われ(14章)、歓喜の歌を歌ったイスラエルの民は(1節以下)、意気揚々とシナイ山への旅を進めます。けれども、そこに一つの問題が生じました。それは、3日間、飲み水が得られなかったということです(22節)。

 そして、マラで泉を見つけましたが、その水は苦くて飲めませんでした(23節)。そもそも、「マラ」とは、苦い、苦しいという意味なのです。ルツ記1章20節の「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言っているのも、この「マラ」です。飲み水がなくて不満がたまっているところに、見つけた水が苦くて飲めないということですから、当然のように民は「何を飲んだらよいのか」と不平を言います(24節)。

 このとき、民は「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救い」(2節)と歌うことを忘れています。文句を言うのが当たり前ということになっているのです。「いつも喜び、どんなことにも感謝する」(第一テサロニケ1章16,18節)ということは、なかなか出来るものではありません。

 つまり、力も歌もそして救いも、イスラエルの民が所有しているわけではありません。まさに、主こそが、「力であり、歌であり、救い」なのです。主とつながっていなければ、何も出来ないでしょう(ヨハネ福音書15章5節)。荒れ野で水がないとなれば、確かに、どうすることも出来なかった分けです。

 そのとき、冒頭の言葉(25節)のとおり通り、モーセが主に助けを求めて叫ぶと、主は一本の木を示されました。モーセがそれを取って水に投げ込むと、なんと苦い水が甘くなりました。飲み水が与えられました。飲めなかった水が飲めるようになったのです。民はようやく一息つくことが出来たのです。

 中世以来、主が示されたこの木は、キリストの十字架を象徴するものだと解釈されて来ました。それを仄めかす言葉があるわけでもありませんが、歩けなかった者を躍り上がらせる主、物の言えなかった者に歌を賜る主は(イザヤ書35章6節、マタイ福音書11章5節)、私たちのために十字架で死んで下さった主であり(ヘブライ書9章15節)、その死を打ち破って三日目に甦られた主です(第一コリント書15章4節)。

 苦しみを喜びに変えて下さる主(イザヤ書29章19節)、万事を益として下さるお方(ローマ書8章28節)を自分の人生にお迎えするという意味で、主の示された木を「十字架」と解釈することは、確かに意義のあることでしょう。

 そして、民は「掟と法を与えられ」(25節)、主の御声に聞き従って歩むと(26節)、12の泉があり、70本のなつめやしの茂るはエリムに到着しました。これは、主イエスがヨハネ福音書7章38節で語られた、聖霊の恵みを示しているようです。イスラエルの民は、荒れ野の苦しみを経て御言葉に聞き従うことを学び、そうして霊の豊かな恵みに導き入れられたのです。


 主よ、私たちの人生のいたるところにマラの泉があります。否、私の心の内にマラがあります。しかし主の十字架が示されるとき、マラがナオミとされること、主が私の力、私の歌、私の救いとなられた、と歌うことが出来るようにされることを、心から感謝致します。 アーメン