「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」 出エジプト記13章2節


 13章には、初子の奉献と除酵祭についての詳しい記述があります。先ず初子の奉献で、冒頭の言葉(2節)のとおり、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」という神の命令があります。主はここで、初めに胎を開くものはすべて、人でも家畜でも、主御自身のものだと言われています。

 11~16節は、初子の奉献の方法が記されています。人間とロバ以外のものは殺してささげ、ロバの初子は小羊をもって贖わねばならないと言われています。ロバは神によって汚れた動物とされており、ささげものに適さなかったからです。「あなたの男子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない」と言われていますが(13節)、人間の初子の贖い代はここには記されておりません。

 神は、エジプトの最後の災いとして、国中のすべての初子を、人の初子から家畜の初子まで、すべて撃たれました(15節)。12章30節には、死人が出なかった家は一軒もなかったと記されていました。しかし、イスラエルの家は災いが過ぎ越しました(同13節)。

 イスラエルの家をエジプト人のものと区別するために、神は予め、小羊の血を入り口の柱と鴨居に塗らせました(同7節)。そのために、傷のない一歳の雄の小羊が犠牲となりました(同3節以下)。このことから、初子の贖い代として、小羊がささげられたと考えることが出来ます。

 次いで、除酵祭です(3~10節)。7日の間酵母を除いたパンを食べて過ごします(3,6節)。酵母を入れなければ、軟らかなパンは出来ず、美味しいものではなかったでしょう。スープか何かに浸さなければ食べられなかったかも知れません(マルコ14章20節、ヨハネ13章26節参照)。

 そのようなパンを食べるように言われているのは、イスラエルの民がエジプトを出るとき、ぐずぐずしていることは出来なかったし、道中の食糧を用意する暇もなかったからです(12章32節)。そこで彼らは酵母を入れないパン菓子を焼いて食べたのです。除酵祭を7日間にわたって守るのは、イスラエルが神によって救い出された日のことを記念するためでした。

 神による救いの出来事を祭として記念するというのは、どのような出来事を通して救われたのかを思い出すことです。それは、かつて救いの御業が起こったとおり、これからも神の恵みの御業がおこり続けるという信仰の表明なのです。確かにイスラエルは、歴史の中で何度も国難を経験しましたが、その都度、神はイスラエルを救い出されました。

 もう一つのことも示されます。イスラエルの家の初子が救われるのは、初子自身というより親の信仰です。親が御言葉を信じて、小羊を屠り、その血を門の柱と鴨居に塗ったからこそです。そうしなければ、イスラエルの家といえども、過ぎ越されなかったのです。これは、親の信仰によって子どもが救われることがある、と教えていないでしょうか。

 ソロモンが、「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました」(列王記上3章6節)と言っています。つまり、父ダビデが忠実に正しい心をもって御前を歩んだから、神がソロモンにも慈しみを絶やすことなく示されたと言っているわけです。

 口語訳には「この大いなる慈しみをたくわえて」とあります。「絶やすことなく示されて」を「たくわえて」と訳してあるのです。父に与えられる慈しみが天にとっておかれて、それが子に授けられるということになります。愛する子らのために、ダビデのごとく、「忠実に、憐れみ深く正しい心をもって」、神の御前を歩みましょう。

 この「忠実、憐れみ深く正しい心」とは、主イエスの心ですね。主が私の心にお住まい下さっているので、主イエスにあって私の心にもそれがあると言わせて頂くことが出来ます。主を信じ、主と共に歩ませて頂きましょう。


 愛する天のお父様、どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手がわたしと共にありますように。災いからわたしを守り、私が苦しむことのないようにして下さい。イェス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。アーメン