「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。」 出エジプト記11章1節


 これまで、杖のしるしに始まって(7章8節以下)、「9つの災い」がエジプトの上に降されて来ました。けれども、ファラオはイスラエルの民を去らせることを受け入れることが出来ません(10章27節)。ファラオはモーセに、「二度とわたしの前に姿を見せないように気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」(同28節)と言いました。

 しかし、エジプトに下る災いは、それで終わりではありませんでした。冒頭の言葉(1節)のとおり、もう一つの災いがエジプトに下るのです。そしてそれは、エジプトにとって大変厳しいものでした。

 ここで、「災い」(ネガー)という言葉は、レビ記13,14章に多く用いられていますが、そこでは、「疾病、傷」という意味で用いられています。これは、エジプトに下される災いが、疾病や打ち傷という類のものであるということを示す用語です。この最後の災いでもたらされる疾病、打ち傷が大変厳しいものなので、ファラオは彼らを去らせる決断をせざるを得ない、否、一人残らず、一刻も早く追い出さなければならない事態になるということです。

 一方、神はイスラエルの民のために、「あなたは民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」と言われました(2節)。これは既に、3章21,22節に語られていたことです。

 繰り返し下される災いによって、エジプトの民はイスラエルの神に恐れを抱くようになっていたでしょう。それで、イスラエルの民の要求に応えざるを得ない空気が生まれていたということもありましょう。その上、主なる神は「エジプト人の行為を得させるようにされ」ました(3節)。喜んで差し上げますという具合です。

 指導者モーセについては、「ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(3節)とさえ記されています。何故、そのような思いを抱くようになったのでしょうか。それは、エジプト中に災いが起こされて、民が苦しんでいるのに、そこに目を留めないで、一人心頑なになっているファラオに対する憤りや失望を背景に、おのが民を奴隷の苦しみから解放しようとして行動するモーセを支持する思いになったのではないでしょうか。

 かくて、ファラオを除くエジプトの民は、主なる神を畏れ、モーセとイスラエルの民に好意を持つようになっているのに、ファラオが一人だけ、いよいよ頑迷になっているわけです。そして悪いことに、そのファラオの頑迷さが、エジプトの運命の鍵を握っているのです。その結果、最後の災いがエジプトに臨みます。

 主がモーセに告げられたのは、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼を引く女奴隷の初子まで。また家畜の初子のすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない」という言葉です(4~6節)。

 この災いは、直接神によってエジプトにもたらされることになります。それは、神を礼拝するために民を去らせよという要求を、ファラオが心頑なにして最後まで聞き入れようとしないからです。

 そもそも、モーセがエジプトに遣わされたのは、神がイスラエルの民の苦しみを見られ、その叫び声を聞かれたからです(3章7節)。イスラエルの家に生まれてくる男児は、初子のみならず皆ナイル川にほうり込め、という命令もありました。結局、イスラエルの民の苦しみをなぞるようにエジプトの民に災いが下され、主が神であることを、ファラオが知るようになることが目指されているのです。

 イスラエルの民を去らせるために行動するのは、まず家臣たちです。8節に、「あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう」と言われています。

 12章31節で、「わたしの民の中から出て行くがよい。あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい」とファラオがモーセたちに言うのは、家臣たちの声に促されてのことなのでしょう。

 主よ、わが国の指導者の周りに主を畏れる者を配置して、正しい政を行うことが出来るようにして下さい。武力によらず、経済に依らず、愛の奉仕を通して世界の平和に貢献する国となれますように。放射能の汚染から、我が国民を、全世界をお守りください。我が国民に希望を与えて下さい。祝福に満たして下さい。あなたを待ち望みます。 アーメン