「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民とする。」 創世記46章3節


 エジプトで宰相となっていたヨセフが、兄弟たちに自分の身を明かし(45章1節以下)、まだ5年は飢饉が続くので(同6節)、全家がエジプトに下って来るようにと、父ヤコブに告げさせます(同9節以下)。さらにヨセフは、ファラオの命に従って馬車に、道中の食糧(同21節)、晴れ着を与え(22節)、更に、父ヤコブに多くの贈り物を持たせました(23節)。

 それは、父ヤコブにとって、にわかに信じることの出来ないニュースでした(同26節)。獣に殺されたと思っていたヨセフが生きており(37章33節)、しかも、「エジプト全国を治める者になっている」というのです(45章26節)。しかし、ヨセフが与えた数々の品を示されて、父ヤコブは元気を取り戻します(同27節)。きっと、抑え切れない喜びが湧き上がって来たことでしょう。

 46章は、物語の主人公の座が、もう一度ヨセフから父ヤコブに移ります。ヤコブ=イスラエルは、かくして一家を挙げて、エジプトに向けて旅立ちます。その途中、ベエル・シェバに立ち寄り、神にいけにえをささげました(1節)。ここはかつて、ヤコブが兄エサウを出し抜き、父イサクを欺いて、祝福の祈りを受けたところです(27章18節以下、28章10節参照)。

 その夜、幻の中に神が現れて、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」と言われました(3節)。ここに、「エジプトへ降ることを恐れてはならない」と言われていますが、ヤコブはエジプト行きを恐れているのでしょうか。それはしかし、何故でしょうか。

 エジプト行きは、第一に死んだと思っていた息子ヨセフと再会するためであり、第二に、なお5年は続く飢饉から逃れるためです。むしろ、ヘブロンやベエル・シェバに留まるほうが恐れを伴うことでしょう。ここにヤコブがエジプト行きをためらい、恐れる理由を見出すことは出来ません。

 ここでヤコブが恐れているのは、エジプトに下ることではなく、神のこと、神がエジプト行きを許されるのか、ということでしょう。これまで、利益を得るためには手段を選ばないヤコブでしたが、あらためて神の祝福を受け、「イスラエル」という名を与えられていながら、またもや神の御旨を尋ね求めないで、見える物に心動かされ、利益に飛びつこうとしているのではないかと、神を畏れていけにえを献げ、御旨を祈り尋ねたわけです。

 それは、本当に神によって生きていこうとしているのか、本当にパンよりも神の御言葉が大切なのかということでしょう(マタイ福音書4章4節)。今ヤコブはここに、神を畏れ、神の御言葉を求めて礼拝をささげました。それを神が祝福されて、「安心してエジプトに下れ、そこで大いなる国民とする」という約束を下さったわけです。そこで、ヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行きました(7節)。

 かつて、父イサクの祝福を受けた後、ハランに旅立つとき、ヤコブは独りでした。ところが、今再び祝福を受けてエジプトに旅立つヤコブには、レアから生まれた子らが33名(15節)、ジルパの子らが16名(18節)、ラケルの子らが14名(22節)、ビルハの子らが7名(25節)と、嫁たちを除いて合計70名の子らが与えられており、既に、大家族になっています(27節)。その上、「大いなる国民」となる祝福を受けたのです。

 実際に、神はイスラエルを祝福され、430年後にエジプトを脱出したとき、イスラエルの民は、兵役に就くことの出来る20歳以上の男子だけで60万3550人になりました(民数記1章45,46節)。ただ、その祝福は、苦難と無縁ではありませんでした。ハランでは20年のただ働きがありましたし、エジプトでは430年の奴隷生活が待っていたからです。

 ヤコブ=イスラエルが神の御前に砕かれ謙ったように、主イエスの弟子たちも御前に砕かれる経験をしました。それは、ゲッセマネの園で主イエスを見捨てて逃げ去ったこと、大祭司カイアファの官邸で主イエスを知らないと三度も否定したことです。自分の力で信仰に堅く立つことは出来ない、神に頼り、聖霊の力を受けなければ、主イエスの証人となることは出来ないと思い知らされたのです(使徒言行録1章8節)。

 だからこそ、弟子たちは主の召天後、心を込めて一つになって真剣に聖霊を祈り求めたのです(同14節)。主なる神は、弟子たちの祈りに応え、彼らを聖霊に満たしました(同2章1節以下)。そこから、キリスト教会の働きが始まったのです。徹底的に自らの貧しさ、罪深さを知り、謙って主に従いましょう。

 主よ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを慕い求めます。主の愛と恵み、聖霊の力と導きを祈り求めます。どうか私たちを祝福して下さい。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン