「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」 創世記45章5節


 いよいよ45章は、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスです。「何とぞ、この子(ベニヤミン)の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」(44章33節)という兄ユダの言葉を聞いたヨセフは、もう自分を抑えることが出来なくなり、兄弟たちを残して側にいる他の者たちを外に出し、自分の正体を明かします(1節)。

 ユダは、ヨセフが父親の愛を一身に受けていることを妬み、夢の話に恨みを抱いて、ヨセフをイシュマエル人に売ろうと提案した張本人です(37章26節以下)。そのユダが、上記の通り、父の愛を一身に受けているベニヤミンをかばい、自分が代わって奴隷になると言ったのです。

 考えてみると、兄たちがエジプトに穀物を買いに来てから、ヨセフはずっと、エジプトの司政者ツァフェナト・パネア(41章45節)として彼らに接して来ました。そしてそれは、ヨセフが最初に見た、「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(37章7節)という夢の実現でした。

 恐らく、ヨセフの心には、自分を苦しめた兄たちへの憎悪があったでしょう。それゆえ、かつての夢が実現したということで、勝ち誇る思いを持っていたのかもしれません。そして、弟ベニヤミンを呼び寄せることにも成功しました。その気になれば、これからずっと側近くに置いておくことも出来ます。

 けれども、こうしたヨセフの企みを、ユダの父ヤコブや弟ベニヤミンに対する思いが粉砕、溶解してしまったのです。そこで、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と名乗ります(3節)。

 それを聞いた兄弟たちは、答えることが出来ませんでした。ヨセフを空井戸に投げ込み、食事しながら相談している間に、ミディアン人がヨセフを引き上げ、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまって、その姿を見ることが出来なくなって以来(37章12節以下)、死んだことになっていたヨセフが、今、自分たちの生殺与奪の権を手にした支配者として、目の前に立っているのです。どう考えればよいのでしょうか。

 これは、主イエスの復活のニュースを受けた弟子たちと同じ反応ではないでしょうか。弟子たちは、死んだ主イエスの復活を信じられませんでした。その上、主イエスがゲッセマネの園で身柄を拘束されたとき、皆主イエスを捨てて逃げ出したのです。ただ一人ついて行ったペトロは、カイアファの官邸で、3度も主イエスを否定してしまったのです。どの面下げて主イエスに会えるか、といった状況と同じでしょう。

 恐れて口を開くことが出来ない兄弟たちを側に近寄らせ、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と確認させます(4節)。決して死者ではないし、化け物でもないということです。甦られた主イエスが、弟子たちに手足を見せ、焼き魚を食べて見せられたときのような(ルカ24章36節以下)、疑うトマスに手の釘跡を見せられたときのような(ヨハネ20章24節以下)振る舞いです。

 そして、冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と語ります。これは、完全な赦しの宣言です。

 確かにヨセフはエジプトに売られました。「悔やんだり、責め合ったりする必要はない」という言葉は、ある意味で、兄たちに報復しようという悪意があったこと、しかし、今はそれが消滅してしまったこと、ゆえに、罪の償いなどは全く必要がないというを表明しているのです。

 「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」という言葉は、あるいは、この時初めて、ヨセフの心に浮かんだ思いだったのではないでしょうか。今初めて本当のことが分かった、ということです。それは、ヨセフの見た夢は、ヨセフを勝ち誇らせるためではなく、神が家族に将来を与えるためのものだったということです。

 主よ、ベニヤミンのために身を投げ出すユダの言葉を聞いて、ヨセフは心溶かされ、兄弟たちの罪をすべて赦しました。神の御心を悟ったからです。ヨセフが父の愛を受け、特別な夢を見たのは、家族の救いに奉仕するためであり、苦しみを味わったのは、ヨセフのエゴが砕かれるためだったのです。主の御名が崇められますように。 アーメン