「彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい。』ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。」 創世記39章12節


 ヨセフ物語の続きです(37章より)。イシュマエル人のキャラバンは、ヨセフをエジプトに連れて来て、宮廷の役人、侍従長ポティファルに奴隷として売りました(1,2節)。遠い外国の地に奴隷として売られてしまい、ヨセフが見た夢は、雲散霧消してしまったかのごとくです。

 けれども、その夢はヨセフ自身が見たいと欲したものではなく、神が彼に見せられたものでした。それゆえに、ヨセフがどこへ連れて行かれようとも、そこに主が共におられ、彼のなすことをすべて祝福されました(2節)。ヨセフのゆえに、ポティファルの家も祝福されたのです(5節)。

 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編1編2,3節)という御言葉がありますが、ヨセフに夢を与えられた主こそ、命の水の流れであり、主の導きに従うときに、その人のすることは、繁栄をもたらすものとなるのです。

 ポティファルは、家財産の管理一切をヨセフに委ね、安心して余暇を楽しめるようになりました(6節)。ヨセフは、奴隷という身分ではありますが、主人の絶大な信頼を得て、いきいきと仕事に打ち込んだことでしょう。

 ところが、「好事魔多し」です。なんと、ポティファルの妻が、顔が美しく、体つきも優れていたヨセフを(6節)、「わたしの床に入りなさい」と誘惑します(7節)。

 ヨセフは、勿論それに耳を貸しません。「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(9節)と語っています。女主人が「わたしの床に入れ」と命じているのですから、それを拒絶すれば、罰が伴うことになるでしょう。しかし、ヨセフにとっては、女主人の命令よりも、神の御心、神の御教えが優先するというのです。

 バプテスト連盟の信仰宣言の中に、「教会は国家に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神の御旨に反しない限りこれに従う」という言葉があります。教会をヨセフ、国家を主人と置き換えれば、この状況に合うでしょう。主人が神の御旨に反したことを命じるときには、それに従わないということです。そのために不利益を蒙っても、神の恵みがそれに勝ると信じるのです。

 女主人は、自分の命令が拒絶されるとは考えていなかったでしょう。あるいは、自分には相当の魅力があるとさえ考えていたかも知れません。そこに、女主人の振る舞いに代表される権力の横暴、身勝手さがあります。

 思わぬ拒絶に遭ってその威信を傷つけられ、馬鹿にされたと考えた女主人は、可愛さ余って憎さ百倍と言わんばかり、ヨセフを主人に告発します。その証拠は、ヨセフの上着です。女主人はヨセフと無理やり関係を持とうとしましたが、冒頭の言葉(12節)のとおり、ヨセフはなんとか逃がれて、外に出ました。そのとき、女主人の手にヨセフの上着が残ったのです。

 その証拠によって、ヨセフは窮地に立たされました。ヨセフは、奴隷として主人ポティファルに仕えていましたが、家を管理する執事としての仕事が取り上げられ、監獄につながれるという再度の転落を味わうことになります(19、20節)。しかし、もしも本当にヨセフが罪を犯していたなら、それでは済まなかったでしょう。

 敢えて言うならば、ヨセフを捕らえようとして女主人が手に出来たのは、彼の上着だけです。ヨセフの腕を掴むことは出来なかったのです。勿論、ヨセフは監獄につながれ、ますます苦しみが重くなります。けれども、ヨセフを実際に捕らえているのは、権力の力ではありません。神の御腕がヨセフを守っています。監獄でも主が共におられ、恵みが与えられたのです(21節以下)。

 あるいは、権力の横暴でヨセフの命を奪うことも出来るかもしれません。それでも、ヨセフの魂を自由に取り扱うことは出来ません。ヨセフは神の守りの中で、権力の前に自由に立ち、その前を逃れることが出来るのです。


 私たちも日々主を畏れ、その恵みに信頼して立ち、御言葉に従って歩みましょう。主が共にいて、守って下さいます。

 主よ、ヨセフは外国人奴隷という、最も低い位置に置かれています。けれども、女主人の権力に屈せず、自分の自由を守ることが出来ました。それは、あなたがヨセフと共におられるからです。そして今、インマヌエルと唱えられる主イエスが私たちと共にいて下さいます。それはどんなに心強いことでしょう。どんなに平安をもたらすことでしょう。御名を褒め称えて感謝致します。 アーメン