「ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。『なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして』。そこで、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。」 創世記38章29節


 38章は、ヨセフ物語の筋書きとは、殆ど何の関係もない、ヤコブの4男ユダとその嫁タマルの話です。ユダは、カナン人シュアの娘を妻とし、3人の子をなしました(2,3節)。長男エルに迎えた嫁がタマルです(6節)。

 ところが、長男が主に背いために打たれ(7節)、次男オナンも、レビラート婚という制度に従って長男に跡取りを残すことを拒み、兄弟としての義務を果たさなかったため、打たれて死にました(8~10節)。そこでユダは、末息子シェラが成人するまでと言って、タマルを実家に帰します(11節)。

 しかし、ユダはタマルをシェラの妻とするつもりはありませんでした(12,14節)。あるいは、タマルが諸悪の根源のように考えていたのかも知れません。ユダの腹の内を知ったタマルは、娼婦の姿で義父ユダを誘惑して関係を持ち(14,15節)、身籠りました(24節)。

 嫁の姦淫による妊娠を知ったユダは、「焼き殺せ」と命じます。そのときタマルは、胎児の父親がユダであることを告げます(25節)。ユダは、嫁を裁く資格のないことを悟ります(26節)。やがて、タマルは双子の男児を産みます(27節以下)。この話が、なぜ記されているのでしょうか。ここから何を学ぶべきでしょうか。

 ひとつは、ヨハネ福音書8章1~11節で教えられることです。それは、姦通の現場で捕らえられた女性の裁判を要求する律法学者たちに対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(同7節)と言われたところ、結局、誰も女性に石を投げつけることが出来なかったということでした。

 つまり、律法学者たちは、自分のことは棚に上げて、他者に対して、特に弱い立場の女性に対して、正義の刃を振り上げていたわけです。けれども、そのことを主イエスに指摘されて恥じ入らされ、その場を立ち去るほかなかったのです。

 主イエスは、罪を犯されたことのないお方、即ち、その場で女性を正当に裁く資格、権利を持っておられるただ一人のお方です。けれども、主イエスは女性に、「わたしもあなたを罪に定めない」(同11節)と言われました。罪の裁きをおのが身に引き受け、その女性をお赦しになったのです。

 ヨハネは主イエスを、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(同1章9節)と言っています。私たちは暗闇で、人の知らないところで、あるいは無意識の内に罪を犯す、心に情欲、妬み、争う気持ちを持っている、それらがまことの光によって照らされるのです。それは、死をもたらす裁きの光ではなく、その罪の暗闇を私たちから追い出し、取り除き、完全に清める光、赦しを与え、命を与える光なのです。

 私の中学時代の友人が、高校生になって教会に来ました。そこでヤコブ書1章を学びました。「絶対者なる神の前に出たときに、そこに自分の真の姿が示される。主こそ完全に正しい鏡だ」と聞いて、彼は真剣に聖書を読み始め、自分の罪の醜さに気づくと共に、キリストの愛を受け入れ、信仰を持ったのです。

 今ひとつは、ユダもタマルも夢想だにし得なかった歴史が、ここから展開していくということです。マタイによる福音書1章1~16節には、アブラハムから主イエスまでの系図が記されています。その系図の中に、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」(同3節)という言葉が出て来ます。ユダとタマルは、神の前に姦淫の罪を犯したのですが、神は二人を憐れみ、二人の弟息子を選んで、アブラハムから主イエスに至る系図の中に置かれたのです。

 この系図に登場する人物の中で、罪を全く犯さなかったという人は、勿論、一人もいません。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすること」です(第一ヨハネ1章10節)。主イエスの系図は、罪のない清い人の連なりではありません。しかし、主イエスがすべての罪を赦して下さった結果、系図に名を連ねた人々の人生が主イエスのための生涯、主イエスの役に立つ生涯に変えられたということを表わしているのです。

 敢えて言えば、ペレツがいなければ、そしてユダとタマルがいなければ、主イエスの誕生がなかったというほどに重要な存在として下さったのです。これはもう、ただ神の憐れみによる選び、神の恵みによる導きという外ない出来事です。そしてそれが、私たちの人生にも起こっているのです。

 主よ、御子イエスによって私たちのすべての罪を赦し、神の子として生きる道を開いて下さいました。主の恵みに応え、御旨に従い、主の御業のために用いられる者とならせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン